ドーゼという言葉は、東洋医学において、治療時における刺激量のことであると広く認識されています。しかし、筆者は東洋医学的治療を行っている中で、治療内容を単純に刺激量とし、ドーゼという言葉で表すことに違和感を持つようになってきました。今回は、このドーゼについて、色々な視点から考えてみたいと思います。今回対象とする東洋医学的治療は、体表より治療を行う、鍼・灸・按摩指圧(後は“鍼灸按”と略す)を対象とします。
ドーゼは西洋医学的概念
まずドーゼ(dose)という言葉を辞書などで調べると「薬などの一回の投与量」「放射線の線量」という意味があり、医学業界では前者で使われているようです。このdoseという単語、英語ではドースと読み、フランス語ではドーゼと読み、ドイツ語でもドーゼと読みます。しかしながら、ドイツ語のドーゼという単語は器という意味で、ドイツ語での薬の投与量という単語はdosis(ドージス)となります。いずれにせよ「dose」は薬の投与量という意味で使われ、西洋医学が日本国の医療の主流になりだした当時は、ドイツ医学が主流であったためdoseをドーゼとドイツ語読みをしたのではないでしょうか。
鍼灸界においては投与量を刺激量の意味に転用され使われるようになったとのではないかと考えられます。そして今やドーゼは東洋医学用語となっています
現代医学的には鍼・灸・按摩指圧は物理的刺激である
“刺激”の定義を現代医学的辞書で調べると、「生体内外の環境条件の変化が、生体の反応を引き起こすとき、これを刺激といい、この刺激には、光、熱など電磁輻射、音、圧、伸張など機械的変形を来たす力などの物理的エネルギー、臭、味、血液pH、ガス分圧などの化学的エネルギー、さらには条件反射実験においては、時間的要素さえ刺激要素となりうる。
刺激に対し生体は独特の反応を示すが、その比較的単純で明白な場合、“興奮”と呼ばれる。本来、興奮を起させえる要素も充分な強度を持たぬ場合、生体には反応が見られないが、この時、刺激が“閾値以下”であるという。
また、特定の興奮を引き起こすには、特定の型の刺激が対応し、これを“適刺激(奏効刺激)”という。」とあります。
また、“刺激療法”を調べると「一般に生物は適度の刺激が加われば、自己保全の目的をもって免疫状態、或いはその刺激に順応する態勢(反応)を現す。この刺激を起すものとしては化学的因子(毒物、薬物など)、或いは物理的作用(光線、熱など)がある。これらの刺激の性状及び強弱によって生体の現す反応も又異なってくる。
これについてアルントシュルツの法則は次の如くである。即ち〔①弱い刺激は生物機能を“鼓舞”し、②適度の刺激はこれを“亢進”し、③強い刺激はこれを“抑制”し、④最も強い刺激はこれを“停止”する。〕これらの刺激を起す物質は生体内で網状内被系統、或いはリンパ系統に関係すると考えられている。この刺激によって現われる反応は生活機能を高め、或る疾病に対する抵抗力、即ち治癒力を与える。かかる意味の療法が刺激療法である。その本態については尚充分に理解されていない。しかし非特異性の薬物刺激によって治癒力が高まることは比較的古くから知られた事実である。また、古くから用いられている灸点、吸角なども刺激療法に属する。」とあります。今回、対象とする鍼灸按を、この分類で別けると、物理的刺激療法の範疇に入いります。
鍼灸按の刺激量
現代医学的に鍼灸按は、どのように捉えられているのかは、前項と前々項を合わせて整理することで明確になると思います。
鍼灸按は物理的刺激と捉え、その刺激の分類は強弱にあります。鍼においての強弱は、鍼の太い細い、刺鍼の深い浅い、置鍼の時間の長い短い、捻鍼の大きい小さい、雀啄の大きい小さいなどになります。
灸においての強弱は、捻りの硬い軟らかい、艾灸の大きい小さい、壮数の多い少ない、透熱灸か知熱灸か、直灸か隔物灸かなどになります。
按摩指圧においての強弱は、圧が大きいか小さいか、時間が長いか短いかなどになります。
そしてその目安の一つが、アルントシュルツの刺激法則なのです。
問題点
この現代医学的な立場における、鍼灸按は単なる刺激治療であるという認識と、アルントシュルツの刺激法則を用いた治療量の判定には問題があります。
アルントシュルツの法則の中で、刺激の程度により、生物機能を鼓舞・亢進・抑制・停止するといっても、目安は“網状内被系統、或いはリンパ系統”の変化であり、これらの変化と、被験者の自覚症状の変化とを照らし合わせて導き出されたものでしょう。
しかし、正気の増加が好転であり、正気の減少が悪化とする東洋医学の立場から、自覚症状を考えると、自覚症状の増減と正気の増減との関係は必ずしも反比例しません。正気が増すことで症状が出現することもあれば、反対に正気が減ることで症状が消失することもあるのです。これは正気が限度を超えて減ると、知覚伝達機能も低下し、症状を自覚できなくなり、その状態から治療などで正気が増えると症状が顔を出す場合がある、というように生体は単純ではないのです。言葉を代えれば症状とは正気が中途半端に存在している時に自覚できるともいえるのです。
すなわち現代医学が言うように、鍼灸按は単なる刺激治療ではないということです。
現代医学では刺激量の判定法として、アルントシュルツの刺激法則以外に、治効理論がいくつかあります。その一つとして灸治療においての、白血球の増減で判定する方法がありますが、これに関して筆者は次のように考察します。
施灸後、白血球が増えたことが、免疫力が増えたとするのですが、ケガやヤケドをしても白血球は増えます。前者後者共に、この時の白血球の増加を気的にみれば、身体に受けた傷を治す為に白血球が増えたのであり、正気が形を変えただけのことであって、結果的に身体全体としての正気は増えている訳ではないのです。ケガやヤケド、灸も生体にとっては外傷であり、それを生理的に修復する為の変化の一つが白血球の増加なのです。ただ灸の場合、灸の熱で陽気が増えたという事実はあります。即ち灸治療というのは、陽気が増えるという正の部分と、火傷を負ったという邪の部分が同時に存在するのです。灸治療を行ったことで正気が増えて治癒に繋がるか、正気が減って悪化に繋がるかは、患者が持つ正気の量と、灸による熱刺激の量との関係で決まるのです。
また火傷で白血球が増えるか増えないかの差は、増える場合は火傷部分を修復できるだけの正気があり、増えない場合は修復もできないほど正気が少ないということになります。故に白血球量の変化は、正気が多いか少ないかの判定には使えるのですが、治療効果があったかなかったかの判定には使えないのです。
このようにアルントシュルツの法則や、科学的な治効理論には、このような曖昧さが残り、鵜呑みにはできません。
“刺激療法”の後の方で「かかる意味の療法が刺激療法である。その本態については尚充分に理解されていない。」とあるように、現代科学においての生体に対する刺激療法の治効理論は、まだまだ解明されていなと考えるのが妥当ではないでしょうか。
判定は?
このように見てくると、治療における刺激量というものは、現代医学が言うような物理的な刺激と東洋医学で対象とする気的な刺激に分けられるように思われます。もともとの起源が西洋医学的な概念からであることから、ドーゼという言葉は物理的な刺激を意味すると考えられます。しかしながら現在の東洋医学界では、物理的な刺激、気的な刺激を意識せずに一括りに“ドーゼ”という言葉で表現しているものと思われます。次に、治療における刺激量を物理的な刺激(ドーゼ)と、気的な刺激(調整)に分けて見ていきたいと思います。
刺激と補瀉
現代医学的には鍼灸按の治効機序は定かではないにしろ、物理的刺激療法として、経験的には理解できるというものです。
数千年の古来より、東洋において綿々と受け継がれてきた、鍼術、灸術、按摩術を、この理論の中に組み入れてしまってもよいものでしょうか?筆者はいささか疑問を感じます。
東洋医学的治療における好転とは正気が増したということであります。その方法として正気を補う“補法”と、邪気を瀉す“瀉法”の、大別して二つがあり、按摩に関しては“行気法”という方法も大きな位置を占めます。これらは現代医学でいう刺激と同じものではないのです。
この補瀉を説明し始めると、“虚実の診断”ということに触れなくてはなりません。そして“虚実の診断”を述べるには、術者の感覚の良し悪しを述べなければなりません。また、補瀉は“人の想い”でも行えることなどにも触れなくてはなりません。このあたりを詳しく掘り下げていくと、論点がボヤけてしまうので、今回は正気の調整には“補法”“瀉法”“行気法”という方法があるというところまでに留め、それ以上は深く踏み込まないようにしつつ進めていきたいと思います。ただこの三法は正しく調整をする(適調整)ということが前提であります。調整の誤り(誤調整)としては、全く生体に変化が生じない不変と、悪化をさせてしまうものがあります。悪化をさえてしまうものとしては、邪気を補ってしまう加邪、正気を瀉してしまう誤瀉、気滞を生じせしめる生滞という三つが存在します。この加邪・誤瀉・生滞の3つの単語は、この論考をスムースに進めるために便宜的に作ったものです。
次に、東洋医学的な見地から、鍼灸按による調整の正誤の機序を考えてみたいと思います。
鍼の生体への影響
前述の如く鍼治療が生体に及ぼす影響(調整法)には、大別して補法と瀉法の2種類があります。そして鍼には幾つかの種類がありますが、ここでは一般的な毫鍼を対象にします。鍼は皮膚に刺すと、気は自然に漏れ出ようとしますので、鍼治療の性質としては気を漏らすのに都合がよい道具であります。即ち瀉法に都合よい治療法なのです。しかし、正気をも漏らすことも多く、誤瀉となりやすいので注意が必要です。
このような鍼治療の性質の中で補法は簡単ではありません。補法ができるのは、“術者に正気が充実している”か、“術者が術に長けている”かのどちらかです。
鍼治療時の気の動きや変化を考えると、補われる気の多くは陰気と陽気とのバランスはほぼ調っています。何故ならば、鍼から出る気は、術者の身体自身から出る場合と、天空の気を吸い込み、それを鍼から出す場合の、大別してこの2通りだからです。
人の気には多かれ少なかれ邪気を含んでいます。故に術者の身体から出る気も、術者の身体を通過して出る気も、その術者の邪気を含んで出るものです。この意味で純然たる天空の気ではないのです。しかし、術者の邪気を含んだ気だとしても、ほとんどの場合、陰気と陽気のバランスは調っているので、人体に気を補い過ぎても陰陽のバランスが狂うといった不具合が生じることは少ないです。増えすぎた気は衛気として体外へ溢れるだけで生体にとって害にはなりません。
その他に問題として考えられそうなのは、経穴を用いるために六臓六腑間(臨床的には六臓と捉えるのが適当なのでここでは五臓ではなく六臓としました)や経絡間でのアンバランスが生じることです。しかし、例えば躯中の正気を水と考えると、水槽が躯幹で、水槽の中が六臓六腑に分割されていて、個別に吸い上げられる水道管が経絡であり、経絡の中を経気である水が流れるようなものです。だから一穴から気を補うと、時間の経過と共に六臓六腑と12経絡の全てに正気は行き渡ります。(ただ、病因が継続する場合はこの限りではありません。)これ故、鍼で補法を行って生じる誤調整は、補いが足らない場合だけです。
次に瀉法を考えてみます。毫鍼においての瀉法は基本的に邪気を漏らすことにありますが、しかし邪気のみを漏らすということは至難の技であり、多かれ少なかれ正気も同時に漏らしてしまいます。それでも邪気が主に減少することで、治療前よりも正気が増えるキッカケとなり、結果的に正気が増えれば、治療は適調整であったと判断できます。このような場合、ほとんどは症状の好転をみるので、ドーゼ的にはドーゼの過不足はない適刺激となります。
しかし、正気が治療前と変化がなければ誤調整であり、このような場合は、ほとんど症状の変化もないので、ドーゼ的にはドーゼ不足となり、正気が治療前より少なくなったとなれば、誤調整(誤瀉)だといえます。この時は、ほとんどの場合症状の悪化を伴うのでドーゼ的にはドーゼ過剰となります。
蛇足で刺絡について考えると、刺絡は気血共に漏らすので身体への影響は甚大なものとなります。それでも血滞気滞が取り除かれることで気血の流れが戻り、短時間のうちに正気が治療前よりも増すのであれば適調整(瀉法)、ドーゼ的には適刺激であったと判断できます。しかし、正気が治療前と変化がなければ誤調整、ドーゼ的にはドーゼ不足であり、正気が治療前より落ちたとなれば誤調整(誤瀉)、ドーゼ的にはドーゼ過剰といえます。
一般的に瀉法を用いる時の生体側の対象状態を考えると、基本的に邪の存在があることが条件です。その邪は、外感六淫(風・寒・湿・燥・暑・火)や内生五邪(寒・熱・湿・風・燥)、気滞、血滞、便結などであり、単独または複数で存在します。
しかし、邪の存在は、正気の虚に乗じて生じることがほとんどなので、証は概ね正虚邪実と考えるべきです。証として正虚が主か、邪実が主かは、ここでは考えず、瀉法を行ったということは、多かれ少なかれ必ず正気が漏れるという事実がポイントです。
即ち、瀉法を行う時には、術後短時間のうちに気血水、特に気が加療前よりも増えていなければ、誤調整(誤瀉)ということになり、ドーゼ的には、ドーゼ過剰とみなせます。当然のことですが、患体の正気の量により、その限界は違ってきます。
灸の生体への影響
灸治療には下記のように、幾つかの種類があり、また幾つかの分類方法があります。
1)灸刺激の度合いを、壮数で別けると、少ないほど軽く多いほど強い、大きさで別けると、小さいほど軽く大きいほど強いといえます。
2)灸痕の変化で別けると、①灸痕が残りにくいもの(棒灸や隔物灸、知熱灸など)、②一時的に灸痕は付くが消えるもの、③灸痕が終生残るもの(透熱灸や打膿灸など)の3種に別けることができます。生体に加わる刺激量としては、少ない順に①→②→③となります。
3)患者の感覚から別けると、Ⅰまったく感じない、Ⅱ温かく心地よく感じる、Ⅲ熱く感じる、Ⅳ熱く苦痛を感じる、の4種になります。相対的な生体への影響は(刺激量としては)弱い順にⅠ→Ⅱ→Ⅲ→Ⅳとなります。で
4)術者サイドから別けるには脉診で判断するのが最適です。脉の変化で別けると、ⅰ脉に変化がない、ⅱ脉が調う、ⅲ脉がやや大きくなる、ⅳ脉が洪大になる、ⅴ脉が洪大に加え硬くなる、の5種になります。正気中心に診るとⅰは不変であり、ⅱが適量で、ⅴ・ⅳ・ⅲの順で灸刺激が加邪(陽邪)となるのです。相対的な生体への影響は、ⅰはドーゼ不足であり、ⅴ・ⅳ・ⅲの順でドーゼ過剰なのです。
5)症状の消失か否かで別けると、施灸後、A症状が消失する→B軽減する→C変化なし→D増悪するに分類できます。
以上のように5種類の分類方法を示しましたが、次にそれぞれについて詳しく考察してみたいと思います。
1)壮数で生体への影響の度合いは別けられません。患者の身体はそれぞれ正気の量が違うし、皮膚の抵抗力も違い、熱に対する感受性も違います。だからある壮数、例えば5壮としましょう。同じ大きさと捻り具合の艾で5壮すえた場合、正気が多い(体力がある)患者だったら適度な温補になっても、正気が少ない(虚弱)な患者の場合、陽邪となり正気は増えません。正気が増えず邪気が増えるということは悪化させたことになるのです。ドーゼ的には、ドーゼ過剰となるのです。
このように物理的刺激量だけで生体への影響の度合いは決まられません。よく○○疾患には、どこそこに何壮というように記載してある文献がありますが、まったく人の身体を解っていないといえます。
2)灸痕が付くか付かないか分けると、灸痕が付く場合、灸痕が付く→気の不通を生じる→経気が虚す→臓腑が虚す→全身の正気が虚す、となり生体にはダメージとなります。しかし、灸痕が消えてしまう程度であったとして、そのダメージよりも温補としての働きが大きく、差し引きして温補が勝れば、ギリギリ適刺激となります。もしもダメージの方が大きければ、刺激過剰です。ドーゼ的にはドーゼ過剰であります。
灸痕がケロイド状となり終生消えないとなれば、ダメージが終生続くということであり、寿命は確実に縮まっていると想像できます。短期的みて症状の軽減がみられるという意味では適刺激かもしれませんが、長期的には誤調整であり、ドーゼ的にはドーゼ過剰といえます。
このように考えると灸痕が全く付かない場合は過剰刺激(ドーゼ過剰)にはならないのかというと、そうでなく過剰刺激に成り得るのです。例えば棒灸で施灸した場合、灸痕は付きません。しかし、長時間に渡って行うと温補を超えて加邪(陽気)となるのです。それでも灸の中では灸痕が付かないものが、最も安全ではあります。
3)患者の心地よさで別けることは、ある程度参考になりますが、100%頼りになるものではありません。患者の多くは、多く据えると、その分効果が上がると思っています。例えば、1+1=2、2+1=3というように・・・。また、正気が少ない場合、感覚が鈍くなっていることが多く、肉体に生じている状態を正確に感じ取れないために、心地良いと感じるものが、往々に過剰刺激による悪化ということがあります。このような意識や感覚のズレを頼りにした治療は生体に悪影響(ドーゼ過剰)を招くのです。ほとんどの場合、患者が納得する少し前で終えるのが適刺激であることが多いようです。
4)脉診(気)的に別けると、施灸が補法となるか、加邪(熱邪)となるかを簡単に見分けることができます。すなわち施灸が補法にのみ働いていたら、必ず脉に正気のみが増します。正気が増したのに加えて、洪脉や大脉が現われたのなら、施灸が正気の増加に加え、加邪(熱邪)と働いた部分もあったことを意味します。この時、水分を与えて洪脉や大脉が納まれば、陰虚に偏っていたものが改善されたと言うことで適当な治療の範疇に入ります(ドーゼ的には過不足なし)。洪脉大脉に加え硬い部分が増えてきたら邪気の面が大きいことを意味し、ここまで来ると水分を与えても収まらないことがほとんどです。ただ“元々あった邪気が、正気が増えることで、硬い脉として脉に現われる”場合も同じような現われ方をするので、鑑別の正確さが重要となります。
5) 問題点の項で前述のように、灸治療後の症状の変化だけから、身体が良くなった(正気の増加)か、良くなっていない(正気の減少)ということは決め難いのです。それは症状が消失するときには、正気が増加し健全な状態に戻って消失する場合もあれば、正気が減少して、症状を感じられなくて消失する場合もあるからです。またプラシーボ的な効果も加味されることもあり、純然たる施灸の効果とはいえない場合もあるのです。
灸治療に関しての新たな問題
灸治療は数千年の昔から続いている治療法ですが、文明が進んだ今日、様々な問題点が浮かび上がってきました。
一つ目は、古代において身体を温める方法が少なく、多少の害は承知の上で、身体を焼いて温めるという方法を用いていました。それが今日のように温める手段はいくらでもるにも関わらず続いているのには、何らかのものがあるのではないかと思われます。
筆者はそれを解明したく、脉診を頼りに調べてみましたが、結果は単に既存の枠から出られなかっただけのことと判明しました。筆者は温補の必要な患者に対し、ヘアードライヤーを用います。灸治療との効果を比較すると、副作用の有無も含めて、断然ドライヤーの方に軍配が上がります。
二つ目は、もぐさと花粉症の問題です。昨今、花粉症は大変な勢いで増えつつあります。原因は単に花粉だけではないにしろ、現実問題としてキク科によるアレルギーがあることは確かです。艾はヨモギから作られており、ヨモギはキク科であります。当然、灸治療を行うことで、キク科のアレルギーを持つ患者にとってはアレルゲンとなり正気は減少するのです。
このようなことから考えて現行の灸治療が、それほど意味のあるものではないのではないかと思う次第です。
蛇足ですが、患者のヨモギアレルギーの有無を調べるには、紙袋にヨモギを一握り入れ、それを背臥した患者のお腹に載せて、脉が好転するか悪化するかで判断できます。
按摩・指圧
指圧・按摩の場合、生体にどのような変化をもたらすかを考えると、術者の手指により、①患者の気を吸い取る、②患者に気を与える、③押圧により水血に流れを良くする、④押圧により筋肉や血管組織に傷を付ける、⑤関節運動で気滞血滞水滞を改善する、⑥関節運動で筋肉や血管組織に傷を付けるなどがあります。
また、⑦気血水を大きく動かすので、脳や内臓にあった気血水を四肢や躯幹筋肉に移動させた結果、脳や内臓の気血水が足りなくなり、一次的に不快感を生じることや、⑧痛みの症状の場合、他の部位に症状以上の痛みを与え、症状の緩解や軽減を図るといったこともあります。以下それぞれについて説明していきます。
① 患者の気を吸い取る
『霊枢』官能第73に毒の手という下りがありますが、まさにこのような手のことです。即ち患者に触れるだけで、患者の正気を吸い取ってしまう手のことです。術者の手がこのような手の場合、術者がどのような手技を行おうと、患者の正気は吸い取られ正気は治療前よりも減少してしまいます。即ち、誤瀉です。ドーゼ的に考えると、物理的刺激量に関わらずドーゼ過剰といえます。
② 患者に気を与える
『霊枢』官能第73に甘い手という下りがありますが、まさにこのような手のことです。このような手の術者は、後述する「④押圧により筋肉や血管組織に傷を付ける」や「⑥関節運動で筋肉や血管組織に傷を付ける」などをしない限り誤調整はなく、ドーゼ的にはドーゼ過剰となることはほとんどありません。
③ 押圧や揉捻により水血に流れを良くする
押圧や揉捻をすることで、筋肉や血管をポンプのように変形させることで血や水の流れを良くすることが出来ます。即ち、行血、行水ができるので、血滞、水滞を改善できるのです。その結果、気も流れ出します(行気)。
④ 押圧や揉捻により筋肉や血管組織に傷を付ける
前項の押圧や揉捻でも、過度となると筋肉や血管組織に傷を付けることとなり、損傷した部位に気滞・血滞・水滞などを招き、経気の通過障害を生じます。これが一般に言われる揉み起こしと言われるものです。これらが原因で次の病を起す引き金ともなるのです。
また、損傷した部位を修復するのに正気が損傷部位に集まり、身体の他の部位においては正気虚となるために、次の病を引き起こすことになるのです。過剰な手技が次の病を引き起こす機序には以上の二つがあり、過剰な手技は生滞や加邪というべきものなのです。当然ですがドーゼ的にはドーゼ過剰です。
⑤ 関節運動で気滞血滞水滞を改善する
関節は気血水の滞り易いところです。関節内や周辺組織には脂肪や筋肉組織のような柔軟性が少ないので、押圧や揉捻によるアプローチは難しいです。それ故、運動法を用います。この場合注意しなければならないことは過剰な屈曲や伸展によって、関節内や周辺組織に損傷を与えないようにすることです。損傷が出ない段階で終わることができれば、行気法であり、ドーゼ的には過不足のない適刺激ということになります。
⑥ 関節運動で関節内や周辺組織に傷を付ける
前項の関節運動で、関節内や周辺組織に傷を付けると、④で説明したようなことと同じような結果となり、加邪となり気滞・血滞・水滞を起す原因となります。ドーゼ的にはドーゼ過剰であります。
ただ、一部の筋の硬縮により関節硬縮が生じている場合、伸展を強く行い硬縮した筋を切断することで、消極的ではありますが気の流れを良くするという方法もあります。これは適調整であり、ドーゼ的にも過不足のない適刺激ということになります。
⑦ 手技により気血水は大きく動きます。その結果、脳や内臓にあった気血水も、四肢や躯幹筋に移動させた結果、脳や内臓の気血水が一時的に足りなくなることが生じます。これは一般的に言われる瞑眩反応であり、適調整であります。ドーゼ的にも過不足のない適刺激ということになります。
⑧ 痛みの症状がある場合、他の部位に症状以上の痛みを与えることで、症状の緩解や軽減を図ることが経験的にあります。この方法を用いることで症状に緩解や軽減があったとしても、気的には大概が、気が増えて改善されたものではありません。特に正気が少ない病人には無効どころか、かえって害になります。数少ないですが、効果が上がると考えられるケースを想像すると、“正気が充分ある状態で、部分的な軽い気滞が原因の場合”なら考えられます。しかし、ほとんどの場合、加邪であり、ドーゼ的にはドーゼ過剰であります。
最後に
以上のようにドーゼという言葉は、本来西洋医学でいうところの絶対的刺激量であり、東洋医学的治療である、気を頼りにした治療の判定に用いることは、不適切であることが理解していただけたかと思います。
また、絶対的刺激量が同じでも、結果としての反応が個人により違うことから、ドーゼを単に刺激量とせず、影響度と考える方が、臨床で使うには適切ではないかとも思います。
西洋医学が日本国の医療の主流に成りはじめた頃の先人たちが、東洋医学的治療にドーゼという言葉を使い始めたというのは、“当時の主流たる東洋医学家が気というものを認識できなかったため”か、“気的治療を認識しながら、適当な言葉がなかったため”かのどちらかでしょう。
いずれにしても、その後の東洋医学家が、ドーゼという言葉を前者的に使う先生と、後者的に使う先生がおられるという現実があります。
本来東洋医学は、陰陽論の如く白黒をくっきり別けることはしないというように、若干の曖昧さがあって善としてきました。それは、人は完全ではないという謙虚さや、宇宙観のようなものがベースにあったからでしょう。この曖昧さを受け入れる体質が、ドーゼという表現を、曖昧なまま受け入れてしまったとも考えられます。
東洋医学の持つ曖昧さと、ドーゼという言葉の曖昧さとはちょっと違うのではないでしょうか。
ドーゼの用い方に関しては、“物理的な絶対的刺激量をいうのか”“刺激による結果としての変化をいうのか”“気としての刺激量をいうのか”を、明確にして使うべきではないかと思う次第であります。
参考文献:
南山堂 医学大辞典
柿田塾 塾長 柿田 秀明
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