症状と正気(せいき)

 人の治療に当たっていると、治療としては効いている筈なのに、返って症状が出てきたと訴えられることがあります。そのような時、自分では理解できていなのに、患者さんには偉そうに、“瞑眩(めいげん)反応[2]”だと言って逃げていました。しかし、最近になってそのわからなかった原因が、わかってきたように思います。キーワードは“正気”にありました。症状というのは、正気の増減に比例して増減するのではなく、変則的に出現するものだったのです。この症状と正気との関わりについて、鍼灸師の立場から考えてみたいと思います。

  自覚症状

一般的に症状というのは、体において普段(普通)と違った状態をいい、病人が自覚している症状を自覚症状、他人が見てわかる症状を他覚症状と言います。医家が専門知識をもって診断し、異常が有れば、これも他覚症状ということになります。

自覚症状も他覚症状も、体質や体力に個人差があるということを考えると、異常と正常との境界線というのは、あいまいなところがあります。特に、自覚症状の場合、自分を極力正常な範囲に留めたい為に、まだ正常な範囲だとか、誰でもこれくらいのこと(症状)は有るだろうと、自分に都合よく思ってしまい、本来の境界線よりは、かなり異常なところにまで、入り込んでいることが多いようです。

このように自覚症状というのはあいまいなものであります。

  一つの証に対し、異なる二つの症状がある

また、自覚症状の特徴の中に、一つの病因[3]や証[4](しょう)から、まったく異なった症状が出ることがあり、それらはどちらに出るか、規則性がないのです。例えば下記の如くです。

① 腎虚[5](じんきょ)でも便秘と下痢の二通りの症状があります。腎虚からは、下痢という言葉が結びつきやすく、便秘という言葉には結びつきにくく、便秘は胃の実[6]と考えてしまうことが多いようです。しかし、臨床の中で、便秘以外の所見は腎虚しか考えられない病人に、腎虚を補う治療を加えることで、すべて(四診[7]、自覚症状)が、好転いく症例を幾度も経験すると、腎虚で便秘が出現することは確信できます。そしてこのようなことは、案外多いようです。

② 下焦[8](げしょう)が冷えた時に、素直に下焦に冷えを感じる場合と、冷えのぼしたが為に、上焦[9](じょうしょう)に熱が有り、その熱を感じ、下焦の冷えは感じず、自分は暑いと訴えられる場合があります。この時、患者は上や下やの区別ができず、ただ暑いか、冷えるか、のどちらかしか感じられないのです。

③ ②と同じようなことで風邪(表寒[10])を引いた時に、表[11](ひょう)の冷えを訴える時と、内[12]にこもった熱を訴える時があります。片や悪寒[13](おかん)、片や悪熱[14](おねつ)ということです。どちらも表に温補[15](おんぽ)して、緩解することからも本体は裏熱[16](りねつ)ではなくて、表寒なのです。

④ 食傷[17]の時に、便を出せない時と、下す時があります。これは病人の正気の多い少ないや、邪気[18]がどこに有るかによって違ってくると思われます。多く便秘は実に、下痢は虚にしてしまい勝ちでありますが、正気を補うことでどちらも良くなります。

⑤ 表寒の時に鼻閉が出現する時と、鼻水が出現する時があります。症状からは、鼻閉は心肺[19]の熱、鼻水は肺の虚寒[20](きょかん)としてしまい勝ちですが、どちらも表における冷えをとることで治癒することが多くあります。

以上、一つの原因により、二つの症状が現れることを述べましたが、人によっては、それは素体の差や、別の病因も絡んでのことだからと言われるかも知れませんが、色んな原因があっても、その原因が最後のきっかけになったもの、または主たるものと考えた時のことであります。

 これらのように自覚症状自体が曖昧であり、加えて原因から二つの相反する症状が出ることなどから、症状から本体を見ようとすると、曖昧さが付きまとうものであります。

  正気と血[21](けつ)、津液[22](しんえき)

正気とはいったいどの様なものなのでしょう。『内経[23](だいけい)』の中から考えると、生命を維持する中心的なものであることはわかります。しかし、生命を維持するのに必要なのは気ばかりではなく、血や津液の存在も必要なのです。  

生命維持には気・血・津液が必要であり、そして気・血・津液はお互いに根ざしているのです。しかし、変化のし易さで考えたら、気の変化の方が血、津液の変化より早いようです。

例えば、病人が死ぬ前というのは、血や津液は有るのに、肌表や脈における正気は、ほとんど感じることができないことなどから、血や津液の変化は、気の変化より遅れるといえます。

だから正気の状態を診るということは生命の状態をリアルタイムで診ているとも言え、身体の状態をより早く知るには、血、津液の変化を頼りにするよりか、正気の変化を目安にするのが適当と思われます。

  陽気が正気?

人は死ぬと冷たくなることから、正気は陽気ということも考えられます。しかし、日焼けをしたり火傷をすることによって、疲れたり、死ぬことを考えると、単純に“陽気=正気”とも考えられず、素問陰陽応象大論(そもんいんようおうしょうたいろん)編第五にある“壮火之気衰、少火之気壮、壮火食気、気食少火、壮火散気、少火生気”の通り、生体にとって、ちょうどいい陽気というのが正気の一面とも言えそうです。

  陰気と陽気

また、正気を陰気と陽気の二つに分類しますが、臓腑の気と経絡[24](けいらく)の気という意味で、陰気と陽気に分けたり、臓の気と腑の気という意味で、陰気と陽気に分けたり、表在の気と深在の気という意味で、陰気と陽気を分けたり、色々な場において、または対象によって、違った意味で陰気、陽気を言っています。

正気を陰気と陽気に分ける時、鍼灸師にとっては感覚で捉えるのが都合よく、私の場合は陰気と陽気の一面として、気持ちのいい冷たい気を陰気、気持ちのいい温かい気を陽気、というように捉えています。  

そして、この陰気と陽気のバランスは、陽気の方が幾分多いのが、均衡のとれた状態のように思えます。

陰気と陽気は当然のこととは言え陰陽関係[25]にあるので、陰から陽への転化、陽から陰への転化があり、治療する時には、陽気を補うことによって、多くの陰気まで補えるようにも思えます。この時、壮火でなく、少火でなければならないのは言うまでもありません。

また、鍼でもって補う時、鍼師の正気が鍼を伝わって、適度に陰気と陽気が混ざった正気が、患者に入って行くことも考えられ、陰気と陽気とを区別しなくても、治療ができるということがあります。“医は病まず”はこのことをも考えてのことかもしれません。

これらのことから、体表から気を補って治療する場合において、陰気と陽気という区別をしなくても、適度な陽気を使うことで陰気も陽気も補えてしまうので、陰気と陽気とを正気ということばでまとめて考えていいのではないかと思います。

正気は肉体や精神など、人のすべての活動によって消費される

正気は外邪の侵入や、七情[26](しちじょう)、飲食、労働、房事[27](ぼうじ)などの過剰、また、人のすべての活動において消費されます。そして、ある部分で消費されて少なくなった正気は、体の他のところから移動し、補われるようであります。この時、体全体の正気は減ったままであり、増えることはないのです。 

 臨床でよく経験するのですが、頭脳労働者に腰痛が起きる病理は、長時間に渡っての静止状態を強いられたために、腰における経筋(けいきん)病[28]ということもありますが、正気が頭で消費されて、腰筋の正気が減少したためであり、激しいスポーツの後、イライラしたり、眠れなくなるのは、反対に肉体に正気を消費されたために虚し、夜に陰陽のバランスが崩れて生じるものと考えられます。

  正気と邪気

体においての気を分類するのに、正気と邪気という、二つに分けることができます。体にとって良い気、または生命の構成成分である気が正気で、体に害する気が邪気であります。

正気と邪気との分類手段の一つとして、気持ちの良い気を正気、気持ちの悪い気を邪気ということもできます。この気持ちの良い、悪い、は人により感じ方が違い、絶対的なものではありません。だから感じようとする者(特に手)は極力病まず、健康な感覚を持たなければならないのです。“医は病まず”はここでも生きているようです。

そして体にとって良い気が正気であるのですが、正気であっても偏在すれば、正気が邪気に成り得るのです。この意味から正気は常に正気ではないと言えます。

この正気の偏在は虚した正気を補うことによって、ほとんどが解消されるものであります。

兪穴[29]や経絡において、正気と邪気とを感覚的に診ると、正気で充満しているところには、邪気はなく、正気の少ないところには、正気が少ない分、邪気があるようです。

お椀が兪穴や経絡だとすると、お椀から正気が溢れているのが健全な状態であって、お椀から正気が溢れなくなると、空いたところに邪気が入るようであります。この邪気に入られた状態が病であり、正気を増やすことによって、その分邪気は出て行くようであります。

  病とは正気の減少

 病とは正気が健全でない状態を言い、その状態とは正気が減少していることがほとんどであり、元々正気の虚が無くても、強い外邪[30]に襲われるなどで病になったということは、結果的に正気の虚を生じているのです。この意味において“病とは、正気の虚”とも定義できるのではないでしょうか。

  正気を補えば邪気は退く

 正気の偏在が邪になった場合でも、邪に侵入された場合でも、正気の虚したところを補うと、偏った正気は元に戻り、侵入した邪気は外に出てゆくようであります。例えば、下記の如くです。

① おできやニキビの時、正気を補ってやると、消退してゆきます。

おできやニキビの炎症は、正気と邪気との闘争状態であり、膿は邪実[31]であります。その原因は元々の正気の虚にあるので、正気を補うことによって症状の緩解をみます。

② 便秘の時に正気を補うと、便が通じてくる。

便秘は実[32]のように思われ勝ちですが、滞った便が実ということであって、正気は虚していることがほとんどです。故に正気を補ってやると、便が通じるのです。

③ ひょうそうの初期には、刺絡するよりも正気を補う方がいいようであります。            

ひょうそうは小さな傷などから、邪(病原菌)が入ってきて、腫れる(化膿)のですが、邪が強いか正気が弱いかのどちらかの為になったものです。いずれにしても正気を増やしてやれば治まるものです。

 以上のような場合、邪気が極端にひどくないということが条件であり、邪が極端にきつい場合には、上手に瀉法も併用しなければならないと思います。

  正気が虚し過ぎると症状が消える

正気が虚すことが病で、その現れが症状ということとすれば、“正気が虚すと、症状が出てくる”というのは当然な考えというか、妥当な考えであります。

しかし、これらは正気が一定以上ある場合であって、正気が一定以上虚すと、“体の他のところへ損害が及ばないように生理的に働いてのためか”、“知覚するための、経路の機能不全のためか”、“邪が強すぎ守備範囲を超えたためか”、症状として自覚できなくなることがあるのです。

例えば、下記の如くです。

① 傷寒[33]の時に邪が強すぎたり、正気が弱すぎたりした時、発熱出来ません。このような時に正気を補う治療を加えると熱が上がって、その後に発汗して治癒します。

② ①と同じようなことですが、表寒があるのに鼻水が出ない時に正気を増やしてやると、鼻水が出て来ることがあります。咳に関しても同じようなことがあります。これは正気が少ないために邪を外に出す為の力がなく、鼻水や咳が出せなかったものが、正気が増えることによって出だしたというものであります。

③ 食傷の時に、正気が少ないと上げも下しもできない人に、正気を増やしてやると、おう吐や下痢をする。これも正気が少ないために、腸胃にある邪を出せなかったものが、正気が増えることによって、出だしたものであります。

④ 他覚的には肩が凝っているのに、本人に自覚がない時に、正気を増やすような治療を加えると、肩の凝りを訴え出すことが多くあります。

以上のようなことは症状を対象にしたら、悪化でありますが、正気(寿命)を考えた時には悪化ではなく、正しい治療と言えるのではないかと思います。

そしてこれらの“正気を増やすことによって症状が出た”ということから逆算すると、“正気が虚し過ぎれば、症状が消えてしまう”ということが言えるでしょう。

  症状と正気

ここで正気と症状との係わりを整理しますと、“症状の出現=正気の減少”または、“症状の消失=正気の増加”という考え方はすべてに当てはまらず、実は“健康体から正気が減少して症状が出現し、一段と正気の減少をみたとき、二通りの変化があり、一つは「一段と症状が増す」変化。今一つは「症状が消失する」変化”があるようなのです。そして、“正気を増やす時に症状が出る”こともあるのです。

  正気は大事。しかし見えにくい

正気というものは脈診(みゃくしん)にしろ、腹診(ふくしん)、舌診(舌診)、その他の診法にしろ、正確に認識するのは非常に難しいことと思います。いくら注意をはらって治療をしているつもりでも、自分も含めて、正気を見誤っていたり、症状(病人の自覚)を頼りに治療をしてしまうことがよくあります。このような事に関して、勉強になった事例の中の一つを次に上げます。

ある患者さんが上腕と首、腰の神経痛で来院され、表裏共に冷えが強くあったので温補をした直後から、症状の緩解をみました。その後、数回続けて来院して頂いたのですが、その度に再発していたので、患者さんにアトピーの治療の為に、使用中の漢方薬の内容を問うたところ、清熱剤[34]のようだったのです。その煎じ薬を4年間に渡り、毎日飲み続けていたということでした。

初診時に漢方薬を使っていることは聞いており、少しは引っかかりがありましたが、そのまま治せるものなら、その方が平和ではないかと思い黙っていました。しかし、どうも薬が深く関係しているように思えたので、問うてみたという次第です。

この患者さんは、以後この漢方薬の先生と相談の結果、石膏を抜いてもらい、症状も治まったということです。

要は身体を虚し(冷やし)過ぎて、アトピーの症状が出なくなって、代わりに神経痛が出てきたという状態だったのです。ただ一年位前より、患者さん自身に冷える自覚があったということなので、それまでの治療は順調だったのでしょう。(症状から判断してはいけませんが……)

この先生の非を強いて言うならば、“マンネリから来る気のゆるみ”でしょう。長期に渡って来られている患者さんに対しては、ついつい治療がマンネリ化しやすいもので、この先生の気持ちも理解できてしまいます。それでもこの場合は漢方薬の先生に柔軟性があって、尚かつ謙虚な先生だったので、患者さんは救われました。

  現代科学における、正気に近いもの

分野外のことになりますが、東洋医学でいう正気を現代科学の中に見出せたら、見出せなくてもそれに近いものが有れば、見えにくい正気に気が付きやすくなるのではないでしょうか。そのような思いでいると、巷に流れ来る情報の中に、参考になりそうなものにいくつか出会うことが出来ました。

それは①癌に対するキラー細胞、②インフルエンザウイルスの感染時におけるナチュラルキラー細胞、③体内における酸素消費、④体内における糖分消費、⑤感染症時における白血球数、などです。詳しくは専門の方に譲るとして、私の聞き及んだところで言いますと下記の如くです。もしも、私の記憶違いだったらお許しください。

① 癌に対するキラー細胞

人の身体は元来、ガン細胞を殺す為の、キラー細胞というものを持っていて、ガン細胞が増えないようになっているそうです。ガン細胞は毎日いくつかは発生しているのですが、キラー細胞がこれを殺してくれるので、増えることがないといいます。このキラー細胞は精神状態がリラックスしている時に多く出て、緊張状態や体力の衰えた時に減少します。だからガンに罹るということは、緊張状態が続いているか、疲れているかが原因となり、緊張や疲れを解放できたら、ガンは治る可能性が増えるということです。これは正気が精神面と肉体面の両方に流れていることに似ています。

② インフルエンザウイルスの感染時におけるナチュラルキラー細胞

①と同じようなことですが、インフルエンザウイルスに感染した細胞を破壊する為の細胞(リンパ球の一種)が人体内に存在し、これはナチュラルキラー細胞と呼ばれ、昼間に多く、夜中に少なくなり、適度な運動で増加し、過激な運動で減少する。リラックスで増加し、睡眠不足で減少すると言われています。これも正気の働きと似ています。

③ 体内における酸素消費

人の体内においての酸素の消費は、脳、肝臓、運動筋、肺、心臓の順で多く、恐怖感、不安感、脂っこい食事、筋肉の付き過ぎなどで、消費量が増えるといいます。これは体内における正気の移動と似ています。

④ 体内における糖分消費

一般的に言う、頭の使いすぎで、脳でのブドウ糖の消費は増します。だからでしょう、そのような時に甘いものを口に入れると頭や目がシャキッとします。これも精神労働で心気[35]が消費され、脾胃の気を増やすことで回復する[36]のと似ています。

⑤ 感染症時における白血球数

これは今更言う程のものではないとは思いますが、感染症の時に白血球が増えます。この時の白血球の働きは、正気の働きと同じようなものではないでしょうか。同じようなものだとしたら、白血球が増えた分、何かが減っていることを知らなければなりません。

以上のことが東洋医学的に言う、正気とまったく同じものではないにしろ、正気の一部分と考えらるのではないでしょうか。

  結び

以上のように、症状というのは、正気の増減に比例して増減するものではないことがお分かりいただけたと思います。加えて、“病人が自覚する症状というのは、非常に曖昧なところが多い”こと、“一つの病因から相反する二つの症状が出る”ことなどから、正気の状態を診ることなく、症状を頼りとした治療には、危険が多く、寿命を縮めたり、下手をすると患者さんの命に関わることにもなりかねないのです。 

人の治療に当たる時、言葉や理論を並べるよりも、言葉や理論の裏側にある“気”というものに、目を向けなければいけないのではないでしょうか。

                                 以上

 

                                

                      

[1] 人の生命の維持に必要な気。

[2] 病が治る過程で現れる一時の症状。

[3] 病気の原因。

[4] 東洋医学的な診断。

[5] 東洋医学的な腎之臓に正気が少ないといった証(診断)。

[6] 正常以上に多いことをいことをいう。ここでは胃に気が多すぎるという意味。

[7] 東洋医学における診断方法で、望診・聞診・問診・切診の四つをいう。

[8] 東洋医学的に人体を上下に三つに分けたときの下部をいう。

[9] 東洋医学的に人体を上下に三つに分けたときの上部をいう。

[10] ひょうかんと読み、東洋医学的な風邪の捉え方の一つで、体表部の冷え込みをいう。

[11] 体表部をいう。

[12] 人体内部をいう。

[13] 寒さを嫌がる。寒気。

[14] 暑いところや暖めることを嫌がる。

[15] 温めるという治療をいう。

[16] 体の内側の病的(異常)な熱をいう。

[17] 食あたりと考えてください。

[18] 体にとって悪い気。

[19] 五臓六腑の心之臓と肺之臓。

[20] 人体内において温かい気が少なくなったために体が冷えた状態をいう。

[21] ケツと読み、現代医学でいう血(チ)と同じようなものといえます。

[22] 血以外の体内の水液をいい、津は比較的薄くきれいで、液は粘調でにごりがある。

[23] 昔の中国における医学の原典的な書物で、素問81編と霊枢81編からなる。

[24] 人体内において気が通る道路のようなもの。

[25] 陰陽論に根ざした関係で、簡単にいうとこの世のものには絶対というものはなく、すべて“対立しながらの協調”という相対的な関係である。

[26] 喜ぶ、怒る、憂う、思う、悲しむ、驚く、恐れるの七つをいい、精神活動や感情をいう。

[27] セックスのこと。

[28] 内臓からの影響のものでなく、筋肉単独の疾患をいいます。

[29] 一般にいうツボのこと。

[30] 外から侵入してくる邪気で、外感六淫といい、風寒湿燥暑火の六種類がある。

[31] 邪気の強くなったもの、多いものと解釈してください。

[32] 基本的には邪気の実なのですが、東洋医学家の中には邪実の裏には正気の実があるとか、単純に正気の実と考えておられる方がいますので、これらの意味を含めての実であります。

[33] 寒邪に侵入されとことをいい、今でいう風邪(インフルエンザも含めて)のこと。

[34] 体を冷やす働きのある薬。

[35] 心之臓の気で、心は精神活動と深く関わる。

[36] 五臓には五行説に則った関係があり、脾胃の気が増せば心の気が増すのです。

 人の治療に当たっていると、治療としては効いている筈なのに、返って症状が出てきたと訴えられることがあります。そのような時、自分では理解できていなのに、患者さんには偉そうに、“瞑眩(めいげん)反応[2]”だと言って逃げていました。しかし、最近になってそのわからなかった原因が、わかってきたように思います。キーワードは“正気”にありました。症状というのは、正気の増減に比例して増減するのではなく、変則的に出現するものだったのです。この症状と正気との関わりについて、鍼灸師の立場から考えてみたいと思います。

  自覚症状

一般的に症状というのは、体において普段(普通)と違った状態をいい、病人が自覚している症状を自覚症状、他人が見てわかる症状を他覚症状と言います。医家が専門知識をもって診断し、異常が有れば、これも他覚症状ということになります。

自覚症状も他覚症状も、体質や体力に個人差があるということを考えると、異常と正常との境界線というのは、あいまいなところがあります。特に、自覚症状の場合、自分を極力正常な範囲に留めたい為に、まだ正常な範囲だとか、誰でもこれくらいのこと(症状)は有るだろうと、自分に都合よく思ってしまい、本来の境界線よりは、かなり異常なところにまで、入り込んでいることが多いようです。

このように自覚症状というのはあいまいなものであります。

  一つの証に対し、異なる二つの症状がある

また、自覚症状の特徴の中に、一つの病因[3]や証[4](しょう)から、まったく異なった症状が出ることがあり、それらはどちらに出るか、規則性がないのです。例えば下記の如くです。

① 腎虚[5](じんきょ)でも便秘と下痢の二通りの症状があります。腎虚からは、下痢という言葉が結びつきやすく、便秘という言葉には結びつきにくく、便秘は胃の実[6]と考えてしまうことが多いようです。しかし、臨床の中で、便秘以外の所見は腎虚しか考えられない病人に、腎虚を補う治療を加えることで、すべて(四診[7]、自覚症状)が、好転いく症例を幾度も経験すると、腎虚で便秘が出現することは確信できます。そしてこのようなことは、案外多いようです。

② 下焦[8](げしょう)が冷えた時に、素直に下焦に冷えを感じる場合と、冷えのぼしたが為に、上焦[9](じょうしょう)に熱が有り、その熱を感じ、下焦の冷えは感じず、自分は暑いと訴えられる場合があります。この時、患者は上や下やの区別ができず、ただ暑いか、冷えるか、のどちらかしか感じられないのです。

③ ②と同じようなことで風邪(表寒[10])を引いた時に、表[11](ひょう)の冷えを訴える時と、内[12]にこもった熱を訴える時があります。片や悪寒[13](おかん)、片や悪熱[14](おねつ)ということです。どちらも表に温補[15](おんぽ)して、緩解することからも本体は裏熱[16](りねつ)ではなくて、表寒なのです。

④ 食傷[17]の時に、便を出せない時と、下す時があります。これは病人の正気の多い少ないや、邪気[18]がどこに有るかによって違ってくると思われます。多く便秘は実に、下痢は虚にしてしまい勝ちでありますが、正気を補うことでどちらも良くなります。

⑤ 表寒の時に鼻閉が出現する時と、鼻水が出現する時があります。症状からは、鼻閉は心肺[19]の熱、鼻水は肺の虚寒[20](きょかん)としてしまい勝ちですが、どちらも表における冷えをとることで治癒することが多くあります。

以上、一つの原因により、二つの症状が現れることを述べましたが、人によっては、それは素体の差や、別の病因も絡んでのことだからと言われるかも知れませんが、色んな原因があっても、その原因が最後のきっかけになったもの、または主たるものと考えた時のことであります。

 これらのように自覚症状自体が曖昧であり、加えて原因から二つの相反する症状が出ることなどから、症状から本体を見ようとすると、曖昧さが付きまとうものであります。

  正気と血[21](けつ)、津液[22](しんえき)

正気とはいったいどの様なものなのでしょう。『内経[23](だいけい)』の中から考えると、生命を維持する中心的なものであることはわかります。しかし、生命を維持するのに必要なのは気ばかりではなく、血や津液の存在も必要なのです。  

生命維持には気・血・津液が必要であり、そして気・血・津液はお互いに根ざしているのです。しかし、変化のし易さで考えたら、気の変化の方が血、津液の変化より早いようです。

例えば、病人が死ぬ前というのは、血や津液は有るのに、肌表や脈における正気は、ほとんど感じることができないことなどから、血や津液の変化は、気の変化より遅れるといえます。

だから正気の状態を診るということは生命の状態をリアルタイムで診ているとも言え、身体の状態をより早く知るには、血、津液の変化を頼りにするよりか、正気の変化を目安にするのが適当と思われます。

  陽気が正気?

人は死ぬと冷たくなることから、正気は陽気ということも考えられます。しかし、日焼けをしたり火傷をすることによって、疲れたり、死ぬことを考えると、単純に“陽気=正気”とも考えられず、素問陰陽応象大論(そもんいんようおうしょうたいろん)編第五にある“壮火之気衰、少火之気壮、壮火食気、気食少火、壮火散気、少火生気”の通り、生体にとって、ちょうどいい陽気というのが正気の一面とも言えそうです。

  陰気と陽気

また、正気を陰気と陽気の二つに分類しますが、臓腑の気と経絡[24](けいらく)の気という意味で、陰気と陽気に分けたり、臓の気と腑の気という意味で、陰気と陽気に分けたり、表在の気と深在の気という意味で、陰気と陽気を分けたり、色々な場において、または対象によって、違った意味で陰気、陽気を言っています。

正気を陰気と陽気に分ける時、鍼灸師にとっては感覚で捉えるのが都合よく、私の場合は陰気と陽気の一面として、気持ちのいい冷たい気を陰気、気持ちのいい温かい気を陽気、というように捉えています。  

そして、この陰気と陽気のバランスは、陽気の方が幾分多いのが、均衡のとれた状態のように思えます。

陰気と陽気は当然のこととは言え陰陽関係[25]にあるので、陰から陽への転化、陽から陰への転化があり、治療する時には、陽気を補うことによって、多くの陰気まで補えるようにも思えます。この時、壮火でなく、少火でなければならないのは言うまでもありません。

また、鍼でもって補う時、鍼師の正気が鍼を伝わって、適度に陰気と陽気が混ざった正気が、患者に入って行くことも考えられ、陰気と陽気とを区別しなくても、治療ができるということがあります。“医は病まず”はこのことをも考えてのことかもしれません。

これらのことから、体表から気を補って治療する場合において、陰気と陽気という区別をしなくても、適度な陽気を使うことで陰気も陽気も補えてしまうので、陰気と陽気とを正気ということばでまとめて考えていいのではないかと思います。

正気は肉体や精神など、人のすべての活動によって消費される

正気は外邪の侵入や、七情[26](しちじょう)、飲食、労働、房事[27](ぼうじ)などの過剰、また、人のすべての活動において消費されます。そして、ある部分で消費されて少なくなった正気は、体の他のところから移動し、補われるようであります。この時、体全体の正気は減ったままであり、増えることはないのです。 

 臨床でよく経験するのですが、頭脳労働者に腰痛が起きる病理は、長時間に渡っての静止状態を強いられたために、腰における経筋(けいきん)病[28]ということもありますが、正気が頭で消費されて、腰筋の正気が減少したためであり、激しいスポーツの後、イライラしたり、眠れなくなるのは、反対に肉体に正気を消費されたために虚し、夜に陰陽のバランスが崩れて生じるものと考えられます。

  正気と邪気

体においての気を分類するのに、正気と邪気という、二つに分けることができます。体にとって良い気、または生命の構成成分である気が正気で、体に害する気が邪気であります。

正気と邪気との分類手段の一つとして、気持ちの良い気を正気、気持ちの悪い気を邪気ということもできます。この気持ちの良い、悪い、は人により感じ方が違い、絶対的なものではありません。だから感じようとする者(特に手)は極力病まず、健康な感覚を持たなければならないのです。“医は病まず”はここでも生きているようです。

そして体にとって良い気が正気であるのですが、正気であっても偏在すれば、正気が邪気に成り得るのです。この意味から正気は常に正気ではないと言えます。

この正気の偏在は虚した正気を補うことによって、ほとんどが解消されるものであります。

兪穴[29]や経絡において、正気と邪気とを感覚的に診ると、正気で充満しているところには、邪気はなく、正気の少ないところには、正気が少ない分、邪気があるようです。

お椀が兪穴や経絡だとすると、お椀から正気が溢れているのが健全な状態であって、お椀から正気が溢れなくなると、空いたところに邪気が入るようであります。この邪気に入られた状態が病であり、正気を増やすことによって、その分邪気は出て行くようであります。

  病とは正気の減少

 病とは正気が健全でない状態を言い、その状態とは正気が減少していることがほとんどであり、元々正気の虚が無くても、強い外邪[30]に襲われるなどで病になったということは、結果的に正気の虚を生じているのです。この意味において“病とは、正気の虚”とも定義できるのではないでしょうか。

  正気を補えば邪気は退く

 正気の偏在が邪になった場合でも、邪に侵入された場合でも、正気の虚したところを補うと、偏った正気は元に戻り、侵入した邪気は外に出てゆくようであります。例えば、下記の如くです。

① おできやニキビの時、正気を補ってやると、消退してゆきます。

おできやニキビの炎症は、正気と邪気との闘争状態であり、膿は邪実[31]であります。その原因は元々の正気の虚にあるので、正気を補うことによって症状の緩解をみます。

② 便秘の時に正気を補うと、便が通じてくる。

便秘は実[32]のように思われ勝ちですが、滞った便が実ということであって、正気は虚していることがほとんどです。故に正気を補ってやると、便が通じるのです。

③ ひょうそうの初期には、刺絡するよりも正気を補う方がいいようであります。            

ひょうそうは小さな傷などから、邪(病原菌)が入ってきて、腫れる(化膿)のですが、邪が強いか正気が弱いかのどちらかの為になったものです。いずれにしても正気を増やしてやれば治まるものです。

 以上のような場合、邪気が極端にひどくないということが条件であり、邪が極端にきつい場合には、上手に瀉法も併用しなければならないと思います。

  正気が虚し過ぎると症状が消える

正気が虚すことが病で、その現れが症状ということとすれば、“正気が虚すと、症状が出てくる”というのは当然な考えというか、妥当な考えであります。

しかし、これらは正気が一定以上ある場合であって、正気が一定以上虚すと、“体の他のところへ損害が及ばないように生理的に働いてのためか”、“知覚するための、経路の機能不全のためか”、“邪が強すぎ守備範囲を超えたためか”、症状として自覚できなくなることがあるのです。

例えば、下記の如くです。

① 傷寒[33]の時に邪が強すぎたり、正気が弱すぎたりした時、発熱出来ません。このような時に正気を補う治療を加えると熱が上がって、その後に発汗して治癒します。

② ①と同じようなことですが、表寒があるのに鼻水が出ない時に正気を増やしてやると、鼻水が出て来ることがあります。咳に関しても同じようなことがあります。これは正気が少ないために邪を外に出す為の力がなく、鼻水や咳が出せなかったものが、正気が増えることによって出だしたというものであります。

③ 食傷の時に、正気が少ないと上げも下しもできない人に、正気を増やしてやると、おう吐や下痢をする。これも正気が少ないために、腸胃にある邪を出せなかったものが、正気が増えることによって、出だしたものであります。

④ 他覚的には肩が凝っているのに、本人に自覚がない時に、正気を増やすような治療を加えると、肩の凝りを訴え出すことが多くあります。

以上のようなことは症状を対象にしたら、悪化でありますが、正気(寿命)を考えた時には悪化ではなく、正しい治療と言えるのではないかと思います。

そしてこれらの“正気を増やすことによって症状が出た”ということから逆算すると、“正気が虚し過ぎれば、症状が消えてしまう”ということが言えるでしょう。

  症状と正気

ここで正気と症状との係わりを整理しますと、“症状の出現=正気の減少”または、“症状の消失=正気の増加”という考え方はすべてに当てはまらず、実は“健康体から正気が減少して症状が出現し、一段と正気の減少をみたとき、二通りの変化があり、一つは「一段と症状が増す」変化。今一つは「症状が消失する」変化”があるようなのです。そして、“正気を増やす時に症状が出る”こともあるのです。

  正気は大事。しかし見えにくい

正気というものは脈診(みゃくしん)にしろ、腹診(ふくしん)、舌診(舌診)、その他の診法にしろ、正確に認識するのは非常に難しいことと思います。いくら注意をはらって治療をしているつもりでも、自分も含めて、正気を見誤っていたり、症状(病人の自覚)を頼りに治療をしてしまうことがよくあります。このような事に関して、勉強になった事例の中の一つを次に上げます。

ある患者さんが上腕と首、腰の神経痛で来院され、表裏共に冷えが強くあったので温補をした直後から、症状の緩解をみました。その後、数回続けて来院して頂いたのですが、その度に再発していたので、患者さんにアトピーの治療の為に、使用中の漢方薬の内容を問うたところ、清熱剤[34]のようだったのです。その煎じ薬を4年間に渡り、毎日飲み続けていたということでした。

初診時に漢方薬を使っていることは聞いており、少しは引っかかりがありましたが、そのまま治せるものなら、その方が平和ではないかと思い黙っていました。しかし、どうも薬が深く関係しているように思えたので、問うてみたという次第です。

この患者さんは、以後この漢方薬の先生と相談の結果、石膏を抜いてもらい、症状も治まったということです。

要は身体を虚し(冷やし)過ぎて、アトピーの症状が出なくなって、代わりに神経痛が出てきたという状態だったのです。ただ一年位前より、患者さん自身に冷える自覚があったということなので、それまでの治療は順調だったのでしょう。(症状から判断してはいけませんが……)

この先生の非を強いて言うならば、“マンネリから来る気のゆるみ”でしょう。長期に渡って来られている患者さんに対しては、ついつい治療がマンネリ化しやすいもので、この先生の気持ちも理解できてしまいます。それでもこの場合は漢方薬の先生に柔軟性があって、尚かつ謙虚な先生だったので、患者さんは救われました。

  現代科学における、正気に近いもの

分野外のことになりますが、東洋医学でいう正気を現代科学の中に見出せたら、見出せなくてもそれに近いものが有れば、見えにくい正気に気が付きやすくなるのではないでしょうか。そのような思いでいると、巷に流れ来る情報の中に、参考になりそうなものにいくつか出会うことが出来ました。

それは①癌に対するキラー細胞、②インフルエンザウイルスの感染時におけるナチュラルキラー細胞、③体内における酸素消費、④体内における糖分消費、⑤感染症時における白血球数、などです。詳しくは専門の方に譲るとして、私の聞き及んだところで言いますと下記の如くです。もしも、私の記憶違いだったらお許しください。

① 癌に対するキラー細胞

人の身体は元来、ガン細胞を殺す為の、キラー細胞というものを持っていて、ガン細胞が増えないようになっているそうです。ガン細胞は毎日いくつかは発生しているのですが、キラー細胞がこれを殺してくれるので、増えることがないといいます。このキラー細胞は精神状態がリラックスしている時に多く出て、緊張状態や体力の衰えた時に減少します。だからガンに罹るということは、緊張状態が続いているか、疲れているかが原因となり、緊張や疲れを解放できたら、ガンは治る可能性が増えるということです。これは正気が精神面と肉体面の両方に流れていることに似ています。

② インフルエンザウイルスの感染時におけるナチュラルキラー細胞

①と同じようなことですが、インフルエンザウイルスに感染した細胞を破壊する為の細胞(リンパ球の一種)が人体内に存在し、これはナチュラルキラー細胞と呼ばれ、昼間に多く、夜中に少なくなり、適度な運動で増加し、過激な運動で減少する。リラックスで増加し、睡眠不足で減少すると言われています。これも正気の働きと似ています。

③ 体内における酸素消費

人の体内においての酸素の消費は、脳、肝臓、運動筋、肺、心臓の順で多く、恐怖感、不安感、脂っこい食事、筋肉の付き過ぎなどで、消費量が増えるといいます。これは体内における正気の移動と似ています。

④ 体内における糖分消費

一般的に言う、頭の使いすぎで、脳でのブドウ糖の消費は増します。だからでしょう、そのような時に甘いものを口に入れると頭や目がシャキッとします。これも精神労働で心気[35]が消費され、脾胃の気を増やすことで回復する[36]のと似ています。

⑤ 感染症時における白血球数

これは今更言う程のものではないとは思いますが、感染症の時に白血球が増えます。この時の白血球の働きは、正気の働きと同じようなものではないでしょうか。同じようなものだとしたら、白血球が増えた分、何かが減っていることを知らなければなりません。

以上のことが東洋医学的に言う、正気とまったく同じものではないにしろ、正気の一部分と考えらるのではないでしょうか。

  結び

以上のように、症状というのは、正気の増減に比例して増減するものではないことがお分かりいただけたと思います。加えて、“病人が自覚する症状というのは、非常に曖昧なところが多い”こと、“一つの病因から相反する二つの症状が出る”ことなどから、正気の状態を診ることなく、症状を頼りとした治療には、危険が多く、寿命を縮めたり、下手をすると患者さんの命に関わることにもなりかねないのです。 

人の治療に当たる時、言葉や理論を並べるよりも、言葉や理論の裏側にある“気”というものに、目を向けなければいけないのではないでしょうか。

                                 以上

 

                                

                      

[1] 人の生命の維持に必要な気。

[2] 病が治る過程で現れる一時の症状。

[3] 病気の原因。

[4] 東洋医学的な診断。

[5] 東洋医学的な腎之臓に正気が少ないといった証(診断)。

[6] 正常以上に多いことをいことをいう。ここでは胃に気が多すぎるという意味。

[7] 東洋医学における診断方法で、望診・聞診・問診・切診の四つをいう。

[8] 東洋医学的に人体を上下に三つに分けたときの下部をいう。

[9] 東洋医学的に人体を上下に三つに分けたときの上部をいう。

[10] ひょうかんと読み、東洋医学的な風邪の捉え方の一つで、体表部の冷え込みをいう。

[11] 体表部をいう。

[12] 人体内部をいう。

[13] 寒さを嫌がる。寒気。

[14] 暑いところや暖めることを嫌がる。

[15] 温めるという治療をいう。

[16] 体の内側の病的(異常)な熱をいう。

[17] 食あたりと考えてください。

[18] 体にとって悪い気。

[19] 五臓六腑の心之臓と肺之臓。

[20] 人体内において温かい気が少なくなったために体が冷えた状態をいう。

[21] ケツと読み、現代医学でいう血(チ)と同じようなものといえます。

[22] 血以外の体内の水液をいい、津は比較的薄くきれいで、液は粘調でにごりがある。

[23] 昔の中国における医学の原典的な書物で、素問81編と霊枢81編からなる。

[24] 人体内において気が通る道路のようなもの。

[25] 陰陽論に根ざした関係で、簡単にいうとこの世のものには絶対というものはなく、すべて“対立しながらの協調”という相対的な関係である。

[26] 喜ぶ、怒る、憂う、思う、悲しむ、驚く、恐れるの七つをいい、精神活動や感情をいう。

[27] セックスのこと。

[28] 内臓からの影響のものでなく、筋肉単独の疾患をいいます。

[29] 一般にいうツボのこと。

[30] 外から侵入してくる邪気で、外感六淫といい、風寒湿燥暑火の六種類がある。

[31] 邪気の強くなったもの、多いものと解釈してください。

[32] 基本的には邪気の実なのですが、東洋医学家の中には邪実の裏には正気の実があるとか、単純に正気の実と考えておられる方がいますので、これらの意味を含めての実であります。

[33] 寒邪に侵入されとことをいい、今でいう風邪(インフルエンザも含めて)のこと。

[34] 体を冷やす働きのある薬。

[35] 心之臓の気で、心は精神活動と深く関わる。

[36] 五臓には五行説に則った関係があり、脾胃の気が増せば心の気が増すのです。