昨今、中医学が世界の鍼灸界に於いて大きな位置を占めるようになってきました。その要因の一つは、弁証論治なる診断から治療に於いての明確明瞭なるマニュアル化にあるのではないかと考えます。
患者の症状や体表に現れる五感で捉えられるレベルの変化を分類、整理することで証が決定し、治療においては穴性学をベースに証に対応した経穴が明確化されているというものです。もちろんある程度の感覚の訓練は必要ですが、それをクリアーすれば、初学者であっても一応治療できるといる優れた点があります。
こういった手法の背景にあるのは現代科学的な思想であり、すなわち現象をその構成要素に分解し、要素同士の関係性を実験結果の統計的な処理から推測し、それを基に因果関係を捉えていこうとする考え方であります。
このような背景から見ると、痛い処に鍼を刺入し症状の緩解を得ようとする、俗に言う「痛い処鍼」は愚なる鍼法と見られても仕方ないでしょう。
しかし、患者の体内での気の動き、つまり五感を越えた気的感覚で捉えることを中心に見ると「痛い処鍼」は必ずしも愚なる鍼法ではないのではないかと思うようになってきました。
今回はこの「痛い処鍼」について考えてみたいと思います。
【3つの医療観】
前節において患者を気的に捉えるという表現を用いましたが、患者の状態を捉える医療の様式、すなわち医療観において筆者は3つの種類があると考えています。今回の論考をまとめるにあたり、筆者が認識しているこれら3つの医療観と、筆者が思うところの伝統医学的医療観を整理しておきます。
1:現代科学的医療観
これは現代科学的医療観のことであり、現代科学を基本とした死生観、生命観に則った生理、病理による医療観です。五感を中心とする一般的感覚と知力を有する者なら、誰しもが感じ得られる、または認識できる領域での区分によります。
2:気的医療観
これは一般的感覚、すなわち五感では感じ難い気的領域までを含めた死生観、生命観に則った生理、病理による医療観です。東アジアに於ける伝統医学は元々このような医療観を持った医学だったと思われます。しかし、気的医療観で実際に治療ができる者の数は、現代科学的医療観のそれに比べ極めて少なくなります。それは気的領域を認識できる感覚を有する者が非常に少ないためであります。気的領域に於ける正誤の判断は、一般的感覚では出来ません。ここに気的医療観が一般化されにくい要素があります。
3:霊的医療観
これは気的感覚を以ってでも感じ難い、霊的領域までを含めた死生観、生命観を基本としたものですが、確固たる生理、病理があるかどうかわかりません。この曖昧な表現は筆者にはこの領域の入り口程度しか認識できないからです。霊的領域までを正確に認識できる者の数は、気的領域のそれよりも一段と少なくなります。また、一般的感覚はもとより、気的感覚でもこの領域の正誤の判断はし難いものとなります。
このように筆者は医療観として上記の3つを認識しております。その中で本来、東アジアの伝統医学の主軸となす医療観は気的医療観ではなかろうかと考えています。
今回「痛い処鍼」の是非について考えていくにあたり、気的医療観でとらえた身体反応や治療反応について、患者の体においては気的にどのような変化が起きているのか述べていきたいと思います。
【①経穴の反応は、殆どが正気虚】
経穴の反応として多く認識されているのは、皮膚の緩み・硬結・湿り気・冷え・熱・腫れ・圧痛などの部分です。これらは五感で捉えた一般的感覚であります。これらを気的感覚で捉えると、殆どが正気の虚であり正気を補うことで解消できます。
硬結や圧痛、熱などは実だとする古典書物も多々ありますが、それは単純な陰陽論、例えば硬(陽)と軟(陰)、熱(陽)と寒(陰)、実(陽)と虚(陰)などに由来するもので、臨床にはそぐわないものです。
硬結は気または水、血の滞りの結果であり、その滞りの原因の多くは正気虚にあります。気を補い気の流れが戻れば水血の流れも戻り、自然と解けていくものです。
圧痛は体内の失調や外力によって、気血水が本来存在するところから逸脱したり、流れが悪くなったりしたために起こります。これも気を補うことで、殆どの場合解消します。
熱の多くは外力などで血が脈から漏れたか、何らかの修復(感染症・傷など)の為に正気が集まったか、陰虚(水の欠乏)の何れかです。最近ではアレルギーの為に陰虚を起こし、熱を呈していることもよくあります。
書物などで邪実だと捉えられているものでも、正気的には殆どが虚であり、臨床的には正気を補うことで改善します。
【②痛む処は必ず気が少ない】
気的医学の病理に於いては、正気が体中に充満していれば、病はなく健康状態であることから症状の発現はありません。つまり痛みがあるということは正気が少ないということになります。気的に検証すれば、それは簡単に理解できることですが、気的感覚が未だ備わっていない場合、治療者は理解し難いことでしょう。
痛みには正気の実もあると反論される方もおられるかも知れません。痛みの患部の一部分をみれば、その通りかも知れませんが、少し広い視野で見れば、正気の滞りの前に正気の虚があることがわかります。
また、体全体での正気量でみれば必ず虚であることもわかる筈です。痛みの発症を整理すると、「全身の正気虚→局所の正気実(痞え)→痛み」となり、痛みを取るには、局所の正気を瀉すのではなく、全身の正気を補うこととなります。
しかし、外傷性の場合などは健康体でも痛みは出ます。外傷により傷が付けば、傷口から正気や血、水(体液)が漏れ出て正気は虚となります。傷口が無い打撲でも、体内に於いての気血は本来存在する処から漏れ、又は本来存在しない処に侵入してアンバランスが生じ、正気の虚と気滞や血滞が入り混じり、結果的には正気の虚を生じます。このような外傷の疾患でも、正気を補うことで外傷の修復は早まり、症状は改善します。
また生体が外感(風・寒・湿・燥・暑・火)に当たると、生体の機能を保つ為に、衛気を保たなければならず、その為には体内の正気を衛気の応援に使うこととなり、その結果体内に於いての正気の虚を招きます。正気が減少し衛気への応援が出来なくなると痺病等になるのです。
以上のように痛むという場合、必ず正気の虚が存在するのです。
【③経穴治療は、経穴に正気を充満させることである】
痛みに限らず経穴を用いての治療は、経穴を健全な状態、すなわち正気に満ちた状態に戻すことです。経穴が正常な状態に戻れば、理想的な場合は経絡やそれに繋がる臓腑も正常な状態に戻る訳です。
異常な経穴の状態を正邪の有無で診ると、「正気が少ない」か「正気が少なく邪気が有る」のどちらかです。その経穴を正常に戻す手法として補瀉があります。補とは正気を補うことであり、瀉とは邪気を取り去ることです。すなわち「正気が少ない」に対しては補法で対応し、「邪気が有る」に対しては瀉法で対応していく方法が考えられます。
ここにおいて補法は大きな問題はないのですが、瀉法には大きな問題が有ります。すなわち正気と邪気とを明確に別けて邪気のみを瀉そうとしても正気が共に漏れ、理想通りにはいかないという点です。筆者は、経穴内の邪気は正気を充満させることで排出されることを長年の臨床から認識しており、異常な経穴を正常な経穴に戻すには、経穴内に正気を満たすことだけ、すなわち補法で十分であると考えています。
【④経穴の充実は必ずしも臓腑経絡全ての充実でない】
よく体内の状態は経絡を通して体表に表われていると言い、患部から離れた経穴を調整することで、その経穴の気的好転が経絡を介して体内を正常に戻すと唱えられています。
しかし、臨床では患部から離れた経穴を補ったからといって、必ずしも関わる経絡や臓腑の全てに気が充満するとは限らないことを多々経験します。③において”理想的な場合は”という表現を用いましたが、理想的でないのがこのような場合です。
「あなたの腕が悪い」と言われればそれまでですが、経絡または臓腑の気の不足を何で以って計るかが問題だと思います。臓腑経絡の好転の判定の多くは脉診や気色診、経穴診などを用います。しかし、これらの診断では好転していても自覚症状が取れないことがあります。
このような場合は患部に正気が充実していない場合が殆んどです。即ち、治療した経穴に正気が充実していても、他の診法で治療が正解だと判定できても、臓腑経絡全てに正気が充実しているとは限らないのです。
例えば運動器疾患に対する鍼治療の場合、患部から離れた経穴を用いるよりも、患部に直接刺鍼した方が著効を得られることが良くあるのはこの為と考えられます。
【⑤想いで気は増える】
人の想いには気を増やす力があります。これは気的意識で長年臨床を続けた結果、知り得ることが出来ました。この力は誰にでも備わっており、先天的にその力が強い者もあれば、訓練をすることで身に付ける者もあります。内経の『素問』「移精變氣論篇第十三」にある「祝由」は、このような原理に通じる治療法ではなかったかと思います。
この力は医家側と患者側の両方にあり、医家側は「治る」という気持ち、患者側は「治してくれる」という気持ちのことです。現代医学では効果として否定されているプラシーボは単なる思い込みではなく、実際に効いているのです。
これらのことから、「治せる」と自分の腕を信じ切っている医家は、鍼治療の実力以上の力が出るのです。また威厳や風格を持った医家や患者と信頼関係を築いている医家も、患者の治してくれるという意識を助長させて、同じく実力以上の効果が得られるのです。場合によっては、医家が患者の前に立っただけで治る場合もあるのです。
【⑥患者は患部を触られると効くと思う】
患者の中には気や経絡のことを理解していない者も多く、経絡を考えて患部から離れた経穴を用い治そうとしても、信じてもらえないことが少なくありません。そのような患者に対しては、切診で患部に触れるとか、治療穴を患部に取ることで納得してもらえます。これは患者の気持ちの満足だけに止まらず、その患者の納得した想いが⑤項で示した“想いの力”を発動させ、体内に於ける気の流れを回復させ、また気が増え治りやすくするのです。
【⑦気は多い人から少ない人に流れる】
人の気は多い者から少ない者へと流れる性質があります。そばに居るだけでも流れますが、接触していれば尚更その流れは増します。古典文献に見られる「医は病まず」はここからの発想でしょう。だから元気がいい(正気が多い)医家は、治療する気持ちが無くても、患者に触れるだけで症状が緩解する場合もあるのです。
【⑧刺入することは条件付けとなる】
鍼にはさまざまな種類があり、手法にも種類があります。其々に意味があると思いますが、鍼を刺入したことが医家の⑤項の“想いの力”の条件付けとなり、それが一層の効果をもたらすことがあるのです。
【⑨置鍼部位には気が集まる】
体表に置鍼するとその部位に気が集まります。この気は身体のいろいろな所から移動してきたものです。つまり置鍼することでその部位に気が集まり、その部位での症状は緩解するのです。しかしながら置鍼により、鍼を伝って体表から気が漏れ出します。漏れ出るものが邪気だけであればいいのですが、邪気と同時に身体のいろいろな所から集まってきた正気も漏れ出てしまいます。そしてそのまま置鍼を継続していると、全身の正気が徐々に減少し続けます。置鍼での抜鍼のタイミングは、経穴に正気が充実した時なのです。そのタイミングを逃して置鍼し続けると全身的には寫法となるのです。
また、元々正気が少ない患者の場合、置鍼の初めから正気の充実がなく、ただただ寫法となることもあるのです。
【患部に鍼を刺入するということは・・・】
①から⑨より次のようなことが導き出されます。
・ 痛みなど症状のある部位には気が少ない
・ 症状を緩和させるためには気を充実させれば良い
・ 鍼を刺入するとその部位に気が集まる
・ 鍼を刺入することで条件付けにもなるし、医家や患者の想いの力が働き治りやすくなる
これらのことから患部に鍼を刺入するという治療法は、非常に有効な治療になり得るということです。痛みの疾患の場合、痛むところが取穴部位となり、俗に言う「痛い処鍼」のことです。
現代中医学の五感を中心とした現象の把握とそこから導き出された弁証論治を比較すると、はなはだ論理性を欠いているように見えますが、気的感覚でもって患者の身体を見ていくと、論理的にも無理のない方法であり、むしろ効くのは当然であります。
ただ、この治療法のみでは、①患者の正気を必要以上に減らしてしまうという過誤の可能性が増す②病因が掴み難く、養生の指導が出来ない③予後が見え難い、などの短所があります。
【気の感覚の大事】
現代中医学において、実際の気的感覚の重要性が見落とされているのではないでしょうか。現代中医学では気の概念は当然存在しますが、実際にはほとんど概念化してしまっており、具体的にどのようなもので、どのよう扱っていくかなど、より現実的な内容についてはあまり語られません。今のように科学が発達していなかったので、昔の人は気という仮想的な媒体を作って人間の生理、病理を説明するために使用した、と言わんばかりです。
古典の遥か以前、東洋医学の体系を作り上げた先人たちの中には、気的感覚の優れた者も多かったのではないでしょうか。先人たちが作り上げた医学に迫るためには、やはり気的感覚を身につけることが必要となります。気的感覚を身につけることで、先人たちが伝えたかったものを認識できると思われます。
【最後に】
今や世界は西洋的論理である科学中心主義に席巻されつつあります。しかし、その科学が対象とする事象が、この世界を認識するのに十分であるかどうかを検証することなく、ただただ鵜呑みにし、また概念の組み合わせに走り、新たな概念を作り出し、それが科学だと盲信している観があります。
気的医療観に基づいた鍼の臨床に携わっていると、“患者の心の持ちよう”や“医家の心の持ちようや感覚、感性、直観、正気の量”などといった現代科学で取りこぼされたものが、いかに大事かがわかります。そして現代科学的論理をベースにシステム化された東洋医学が、実体からかけ離れた表面的なものに思えてきます。
このようなシステマティックな東洋医学は初学者の勉強の助けとしては優れたものであるし、それに従い治療をしても一定の効果は期待できますが、実体に沿った治療とは少し違います。
今回のテーマである「痛い処鍼の是非」は、現段階では科学的な論理の外側にある治療の是非とも言えます。このような気的医療観による治療は、気的感覚や気を調整する能力に個人差があるため、医家による効果の差が大きいことが問題として挙げられ、そのため広く一般化することには困難が伴います。しかし、一般化しやすい東洋医学が本来の東洋医学の姿とも思われません。鍼の理論も一度初心に帰り、「痛い処鍼」のような気的医療観による治効理論を再考していくことも今後の東洋医学の、また科学の発展に繋がるのではないかと思う次第です。
柿田塾
塾長 柿田 秀明
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