脉診についての一考

① 脉には種々有り難しい

現在、東洋医学の臨床で一般に用いられている脉診法は、橈骨動脉の寸口診法における脉診だと思われます。この脉診には主に経絡治療が行う脉差診と中国医学が用いる脉状診があります。脉状診は、二十四脉(脉経:王叔和)や二十七脉(瀕湖脉学:李時珍)、十六脉(景岳全書:張景岳)、二十八脉(中医)など、脉状の分類は人や時代の違いによりまちまちであります。

 脉の分類の如何に関わらず、それだけの脉の種類を正確に区別し、その脉状から身体を正確に診断し、治療をするということは非常に難しいことです。しかし、先人達が脉状を細かく分類したのは、湯液を使う為ではないでしょうか。

湯液の場合は色々な病状に合わせて、多種の薬剤を組み合わせて処方することができます。だから身体の状態をより細かく分類し、それに合った湯液を使うことで治療効果も上ったものと思います。また、養生の指導を考えると意味あることでしょう。

しかし、私のような鍼灸師の場合、治療としては、気を補うか瀉すかぐらいしかなく、多種の脉状があっても、それに見合うだけの治療の種類を持っていないので持て余すばかりです。

脉診の難しさに関しては、張景岳は『景岳全書』“脉神”の中で次のようにいっております。「脉者、血気之神、邪正之鑑也。有諸中、必形諸外。故血気盛者脉必盛、血気衰者脉必衰。無病者脉必正、有病者脉必乖。矧人之疾病無過表裏寒熱虚実、只此六字、業己尽之。然六者之中、又惟虚実二字為最要。盖凡以表証、裏証、寒証、熱証、無不皆有虚実。既能知表裏寒熱、而復能以虚実二字决之、則千病万病可以一貫矣。且治病之法、無踰攻補、用攻用補、無踰虚実、欲察虚実、無踰脉息、雖脉有二十四名、主病各異、然一脉能兼諸病、一病亦能兼諸脉、其中隠微、大有元秘、正以諸脉中亦皆有虚実之変耳。言脉至此、有神存為矣。?不知要、而泛焉求跡、則毫厘千里、必多迷誤。故予特表此義、有如洪濤巨浪中、則在乎牢執柁稈、而病値危難処、則在乎專辯虚実。虚実得真、則標本陰陽万無一失、其或脉有疑似、又必兼証兼理以察其孰客孰主、孰緩孰急、能知本末先后、是則神之至也矣。」脉を診るには浮・沈・遅・数・虚・実の六つが重要であり、その中でも虚実を診ることが大事であると説き、虚実とは神の存在の有無にあると説いています。

② 胃気

『素問』“平人気象論”に「・・・人以水穀爲本.故人絶水穀則死.脉無胃氣亦死.所謂無胃氣者.但得眞藏脉.不得胃氣也.所謂脉不得胃氣者.肝不弦.腎不石也.・・・」という一文があります。ここでは脉に胃気が無ければ死であり、胃気の有る無しを診ることが脉診において重要であるといっております。そして胃気が無いと真臓脉というものが現われてくるというのです。

胃気の重要性に関しては、張景岳は『景岳全書』“胃気解”の中で次の如く述べています。

「・・・若欲察病之進退吉凶者、但当以胃気為主・・・」、「・・・若脉無胃気、即名真臓脉見・・・」。また、同じく“胃気解”の中で「・・・是可見谷気即胃気、胃気即元気也・・・」、「・・・盖胃気者、正気也・・・」というように、“胃気”は“元気”であり“正気”であるといっており、前項の“脉神”と合わせて考えると“胃気”“元気”“正気”“神”の四つは同じものと考えられます。

 以上のように、病の吉凶を診るには胃気の有無を診る、つまり正気・元気・神の有無をみることというのです。

③ 真臓脉

前述の如く胃気が無くなれば真臓脉を診るといいますが、この真臓脉は次の『素問』“玉機真蔵論”の中では、「臓固有の脉であり、臓の精気」と捉えています。

「黄帝曰.見眞藏曰死.何也.岐伯曰.五藏者.皆稟氣於胃.胃者五藏之本也.藏氣者.不能自致於手太陰.必因於胃氣.乃至於手太陰也.故五藏各以其時自爲.而至於手太陰也.

故邪氣勝者.精氣衰也.故病甚者.胃氣不能與之倶至於手太陰.故眞藏之氣獨見.獨見者.病勝藏也.故曰死.帝曰善.」

 しかし、この『素問』“玉機真蔵論”の真臓脉の説明には矛盾があります。即ち「・・・五藏者.皆稟氣於胃.胃者五藏之本也.・・・」といっておきながら、「・・・胃氣不能與之倶至於手太陰.故眞藏之氣獨見・・・」といっています。胃気を、生命維持のエネルギーだけでなく五臓自体を形作るすべての気と考えるならば、胃気を五臓の本としながら、胃気が無くなれば臓の気だけが脉に出るとはおかしな話です。胃気が無ければ臓の気も無くなるのではないでしょうか。

 私の臨床経験から言わせていただきますと、ある臓が虚した場合に、その臓に関わる色が顔を主とした皮膚に現われます。これと同じように、ある臓が虚した場合に、その臓に関わる脉が寸口で診られるように思います。ただ脉の場合は、“脉神”の中にあるように、一脉が色々な状態を現わし、一病に色々な脉を現わすので、色ほど単純な出方をしません。故に100%とはいえませんが、真藏脉は「虚した臓」または「虚した臓に宿る邪気」を現わすものという考え方もできるのではないでしょうか。

④「所謂脉不得胃氣者.肝不弦.腎不石也.」は何?

ここで②項の[胃気]の中の、「肝不弦.腎不石也.」に関して少し掘り下げてみたいと思います。

『素問』“平人気象論”で、胃気が無いと真臓脉が出るといいながら、すぐ後で「胃気を得ることができないと、肝を病んでいるのにも関わらず弦脉でなく、腎を病んでいるのにも関わらず石脉でない」とあるのです。

多くの注釈家は「肝不弦.腎不石也.」を、前文の「所謂無胃氣者.但得眞藏脉.不得胃氣也.」と同じような意味だとしております。しかし、張景岳は「然但弦但石雖為真藏。若肝無気則不弦。腎無気則不石。亦由五藏不得胃気而然。與真藏無胃者等耳。」、張志聡は「弦鈎毛石。胃気所生之真象也。真象見者。謂胃気巳絶。故死。然五臓之真象。乃胃府精気之所生。精気絶。則肝不弦。腎不石。而又帯鈎彈石之死脉見矣。」といい、多くの注釈家とは異なった解釈をしています。

私の理解は張景岳や張志聡の解釈と似ています。違うところは真藏脉を「臓に宿る邪気」を現わすと考えるところです。

即ち、胃気は、臓を養っている面と、臓に於ける変化(邪気と正気の状態)を寸口に伝達する機能をも養っていて、[ⅰ]胃気が減少しても、伝達機能が働いている間は、臓の状態を寸口に伝達できますが、[ⅱ]伝達機能にも胃気が及ばなくなれば、藏の状態を寸口へ伝達できないのです。[ⅰ]の段階が真藏脉であり、[ⅱ]の段階が「肝不弦.腎不石也.」の段階と考えるのです。つまり、[ⅰ]よりも[ⅱ]の方が、胃気が少ないのです。

このように考えると本当に死が近づき胃気が無くなると、“肝を病んでいても弦を打てず、腎を病んでいても石を打てない”ということに合点がいきます。

 「肝不弦.腎不石也.」はこのことをいっているのではないでしょうか。

⑤ 正気の面から観ると、病脉は全て虚 

以上のようなことから脉状を考えてみたいと思います。その前に、②項の[胃気]でも述べましたように、胃気は正気とも呼べますので、以後は胃気を正気と呼ばせていただきます。その理由は、『景岳全書』“胃気解”の中にある、「・・・盖胃気者、正気也。病気者、邪気也。夫邪正不両立、一勝即一負、凡邪気勝則正気敗、正気至則邪気退矣・・・」から、邪気と対立するものとして正気と表現する方が都合がよいと思います。加えて、正気は体表からも補える現実から、胃に限定される胃気という表現よりも、正気という表現の方がよいのではないかと思うからです。

 “胃気解”の中にある、「・・・又曰脈弱以滑、是有胃気。又曰邪気来也緊而疾、谷気来也徐而和・・・」、「・・・夫元気之来力和而緩、邪気之至力強而峻・・・」、「・・・盖胃気者、正気也。病気者、邪気也。夫邪正不両立、一勝即一負、凡邪気勝則正気敗、正気至則邪気退矣。若欲察病之進退吉凶者、但当以胃気為主。察之之法、如今日尚和緩、明日更弦急、知邪気之愈進、邪愈進則病愈甚矣;今日甚弦急、明日稍和緩、知胃気之斬至、胃気至則病斬軽矣。即如頃刻之間、初急後緩者、胃気之来也;初緩後急者、胃気之去也、此察邪正進退之法也・・・」などから病脉の中で硬い脉・速い脉は邪気を現わし、その邪気の裏には正気の虚が同居していることが判ります。そして力の無い脉は、正気の虚を表しているのです。虚の脉は、また邪気を現わすことができないケースもあるのです。

 以上のことから病脉は正気の面からみれば、全てが虚といえるのです。

⑥ 邪気を脉状に現わせないケースはよくある

真藏脉ほど重篤な状態ではないにしても、邪気を脉に表わせられないケースは比較的よく見受けられるようです。例えば、腎虚の為に便秘になり、下腹部に不快感を訴え、尺位に於いて正気の無い脉を打っている患者に対して正気を補うと、大きさと硬さが増すのです。そして、大きく硬い脉の中に生き生きとした正気の脉も増えるのです。

硬い脉に目がいけば悪化したかのように見え、この硬い脉を取らなければと考え勝ちです。しかし、正気が十分増えていることを確認できれば、この状態で治療を終えて問題ないのです。後に排便と共に硬い脉は消えるのです。

若干、意味合いは違いますが、もう一つ例を上げます。インフルエンザに感染している場合、一般的に高熱が出て脉は洪大数となりますが、正気が虚している為に、症状にも脉にも現わせないケースがあります。この時、正気を補うと、脉が洪大となりその中に生き生きとした正気の脉が増えるのです。多くは、その後に高熱となります。

治療後の脉の硬さや大きさや高熱に目がいくと、悪化したかのようにみえますが、これは正気が増えたために隠れていた邪気を現わせるようになったことと、邪気を駆逐するだけの正気が増え、熱が上った(体温を上げてウイルスを殺す)為なのです。このような場合、多くは早期(数日)に解熱し快方へと向かいます。

以上の例とは反対のケースもあります。例えば、脉で邪気だけを診て、自分は邪気だけを瀉したと思っていても、実は正気を瀉していることもあるのです。詳しくいうと硬い脉だけを診て、邪気を瀉した結果、硬い脉が消失した為に、邪気だけを瀉したと思うのです。しかし、実際は正気を瀉していて、正気が虚した為に、邪気を現わせない状態になった結果かもしれないのです。このような過誤も、邪気と正気との明確な分類ができていれば防ぐことができるのです。 

 また、“胃気解”に「夫邪正不両立、一勝即一負、凡邪気勝則正気敗、正気至則邪気退矣。」とあるように、“邪気が勝れば正気が敗れ、正気が至れば邪気は退く”のです。“邪気を瀉せば正気が増す”とはありません。故に、邪気のみを瀉せたとしても、正気を補っておかなければならないのではないでしょうか。

 現実的に考えて、正気と邪気とを明確に分類して、邪気だけを瀉すというのは神業でしかありません。より安全な治療は、となれば正気を増やして邪気を追い払う方法ではないかと思います。

⑦ 正気を観るには

『素問』“玉機真蔵論”の中には「・・・脉弱以滑.是有胃氣.・・・」。『景岳全書』“胃気解”の中には「・・・又曰脈弱以滑、是有胃気。又曰邪気来也緊而疾、谷気来也徐而和。又曰五味入口蔵于胃、以養五臓気。是以五臓六腑之気味、皆出于胃而変見于气口、是可見谷気即胃気、胃気即元気也。夫元気之来力和而緩、邪気之至力強而峻。・・・」というように、脉中の正気を表現するのに、邪気を表現する言葉と、同じような感じで用いられている為、ついつい形と思ってしまいます。しかし、『景岳全書』“脉神”の中にある「・・・其中隠微、大有元秘、正以諸脉中亦皆有虚実之変耳。言脉至此、有神存為矣。・・・」という一文から、正気というものは、脉の中に隠れている微妙なものであることが伺えます。

 即ち、脉は形を見るよりも、形の中にある微妙な正気の虚実を観ることが大事であり、形が水に浮く木材だとしたら、正気は木材下の水中の状態を観るようなことに似ていると云えます。

脉中に於ける正気を観るには、目の開閉による正気の上下移動を利用すると簡単に観られます。伝統中国医学が行なってきたように、私は寸口診法を左右の寸・関・尺位に別ける脉診法を用いています。診察内容として伝統中国医学が用いている各臓腑配当に加え、寸位は上焦を、関位は中焦を、尺位は下焦の気の状態を表すと考えています。例えば、目を開け物を見る為には、目に正気を移動させることが必要です。目は上焦部にあるので、寸口診法に於いては、寸位に正気の移動が現れます。反対に目を閉じると、目にあった正気が中焦や下焦に分散され寸位の正気が減少します。だから目を閉じさせて脉を観、次に目を開けさせて脉を観ると、寸位に正気の増減を観ることができるのです。

このような訓練を続けていきますと、寸口診法に於ける正気の状態を、簡単に観ることができるようになるのです。

⑧ 脉は無常

 前項で述べた如く、脉は目の開閉のような微妙な身体の変化でも反映して変わってしまいます。だから患者の心の変化、思考の有無、下着の絞まり具合、便意の有無などの微妙な変化で脉が変わります。故に厳密にいうと脉は常に変化しているともいえるのです。

 患者の主たる体調を正確に脉で診るには、患者の身体に影響するあらゆる事に意識して、それらのことを可能な限り排除し、影響が最も少ない瞬間に脉を診なければならないのです。このようなことを考えずに脉を診ていると、本来の患者の体調を診ることはできません。

 例えば、患者がベッドの上で軽い寒さを感じながら、本人は耐えられると思っていても脉は悪化しています。このようなことに気が付かず脉をとっても、それは本来の体調を診ているとはいえないのです。

 以上のように脈診は流れの中で、微妙な変化を観るものといえるのです。

⑨ 最後に

以上のことから、脉診において大事なことは、邪気と正気との明確な分類であるといえます。それができれば治療の正確な効果判定が可能となり、そこから正確な治療とはどういうものか、また自分の治療の限界が見えてくるのではないでしょうか。

                            柿田塾
                            塾 長 柿田 秀明

参考文献
『黄帝内経素問校注』 郭靄春主編 人民衛生出版社
『景岳全書』 張介賓 上海科学技術出版社
『素問識』 丹波元簡廉夫 東豊書店