虚実についての一考

曖昧な虚実判定

気を基本とした東洋医学の中で“虚実”は根幹をなすと言っていいほど重要な位置を占めています。虚実という判定に従って補う[2]か瀉す[3]かという真反対の治療を選択実行しなければならず、虚実の判断が間違っていれば病人を治すどころか悪化させてしまうことになるのです。

ところがよく考えてみるとこの重要な虚実の判定や使われ方が非常に曖昧なもののように思えるのです。この虚実について鍼師(はりし)の立場から考えてみたいと思います。

虚実の曖昧なところは次の如くです。

 ① 四診[4](ししん)でもって虚実を決めますが、四診の中で問診を省く他の三つは人の感覚に頼るものであり、個人差がかなり出てしまう。ましてや気を感じるというレベルにおいては、一段と個人差が出る。

 ② 虚実を判定するのに対象となる人の気は、本人や他人の思いで変化するという不安定さを持っている。

 ③ 虚実関係というのは二つ以上のものを比べての、もしくは一つのものの時間的な違いで比べての多い少ないの関係を言いますが、二つ以上のものを比べての場合、その対 象が正気[5](せいき)と正気を比べての虚実関係なのか、正気と邪気[6]を比べての虚実関係なのか、はたまた邪気と邪気とを比べての虚実関係なのか一貫性がない。

 ④ 複数の診断法を用い多面的に診断するとき、それぞれの診断法が対象とするものが違っている場合がある。

 ⑤ 虚実関係というのは身体中に色んな形で幾つも存在しているのに、証を立てる時に一つ、二つの虚実関係に絞ってしまうのには無理がある。

 ⑥ 治療が即ち診断になるという考えから、瀉法を施して良くなったのだから実だったとし、補法を施して良くなったのだから虚だったと決定してしまうが、手技には個人差があるし、また個人の中でも瀉法[7]をした、補法[8]をしたといっても本当にそれが正しく行われていたかは疑わしいことが多い。故にこれによる虚実の判定は曖昧である。

以上の六つが曖昧なところであります。

 ①の「感覚に個人差がある」という点について

人には視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感が有ります。この五感は本来身体に影響を及ぼすような身体内、身体外の異常を感知するためのもので、感知することによりそれなりの防衛反応を起こし身を守ろうとするものであります。しかしこれには個人差がかなりあります。病気やけがで働きが鈍くなられた方も有れば、生まれつき(普通の生活においては不自由を感じない程度)感覚の鈍い方もおられます。また反対に生まれつきその働きの鋭い方もおられるし、また訓練によって感覚が鋭くなった方もおられます。

五感が鋭い人の感じるものの中には、普通の人にとってまったく感じられないレベルのことが多々あります。このような時、普通の人は自分を正当化する為に、幻覚を見たり幻聴を聞いたのだろうとか、勘違いだろうとか、単なる思い込みだろうとか、はたまた気がふれているのだろうとか言われることが多いのです。

実際そのような時も有るでしょうし、また反対にそれが真実の時もあるのです。感覚の鋭い人は少数派であって、感覚の鋭くない人の方が多数派なのです。多数が正義という今の世の中において、少数派である感覚の鋭い人の立場は不利であります。

訓練をして感覚が鋭くなり、人と差が出来るのは納得できますが、生まれつき感覚に差があるのはどういう訳なのでしょう。これがすべてとは言えませんが、原因の一つと思われるのは、生まれつきの体力の差ではないでしょうか。前述しましたが、五感というのは身体の防衛反応の一つと考えられます。

内的環境、外的環境が身体に悪影響を生じるようなときに、事前に気が付く為のものでしょう。ところが悪影響となるかならないかは個人の体力の差によって違ってきます。同じ環境の変化でも、ある人にとっては耐えられないことでも、別の人にとっては耐えられてしまうような場合です。

このような環境の変化は、耐えられない人にとっては早めに気が付かないと病に陥ってしまいます。ところが耐えられる人にとっては、病になる心配もないので感覚として感じる必要性がないのです。だから体力のない人は感覚が鋭くなり、体力のある人は鋭くなくてもいいのです。

体力のない人の感覚が鋭いのは、ある意味生理的なものと考えられますが、いつもいつも鋭いとは限らないし、いつもいつも正しいとは限らないのです。鋭敏な人でもある一定以上体力が低下すると感覚が鈍くなるようです。正常な生理機能というものは一定の体力の範囲内で機能するもののようで、その範囲外においては正常な機能をしなくなると思われます。

体力のある人は体力の変動があるにしても、その人なりの生理機能が正常に働く範囲内で済むことが多く、疲れたからと言って極端に感覚が違ってしまうことは少ないのです。元々感覚が鋭くないので、狂っていたとしても本人にはわからないと思われます。

このように体力の少ない人は感覚が鋭い人が多いのですが、体力がないが故に狂うことも多くあります。糖尿病の人は甘味を感じにくくなり、糖分を多く取るようになるのは周りから見ると狂っていて病的であるけれど、本人の中ではある意味生理的な反応であり、そうすることにより楽になるのです。

このようなことが、感覚の鋭い人にも当てはまります。自分にとっていやな感じがするものは良く思わない、自分にとっていい感じのものは良く思う。これは誰にでも言えることですが、ついつい自分の体調や体質により善し悪しを決定してしまうのです。その善し悪しというのは絶対的なものではなくて、あくまでも自分の体質やその日の自分の体調にとっての善し悪しということなのです。その人個人としてその日はそれが正しいことなのですが、絶対的なものではないのです。だから感覚が鋭いからといって、絶対的に正しいということはないのです。

 ②の「気は、本人や他人の思いで変化する」という点について

人の気の性質には、気の持ちよう、考えようで変化してしまうということがあります。本人の問題でいうと、自分自身の正気は自分自身の気の持ちよう、考えようにより、流れたり、止ったり、出したり、吸い込んだりしているのです。

例えば元気がでると思えば、知らぬ間に体内に気が流れ入ってきたり、悩みごとが多いと体内において流れるべき気が停滞したりするのです。結果的に抵抗力が強くなったり、弱くなったり変化するのです。

この気の性質を上手く使うと、病気になったときに自分自身の意識(考え方)だけでよくすることも出来るし、反対に考え方によっては悪くもなるのです。ただ意識といいましたが、実は無意識をも同時にコントロールするのが望ましいのです。

車やバイクのレースのときに、コース上に障害物などがあり回避したいときには、障害物を見ず、回避したい方向に目を向けるとうまく回避出来て、障害物を見ていると、そちらの方に突っ込んでしまうという話と同じことが言えます。“回避したい方向に目を向ける”というのは、意識も無意識も回避する方向にあり、“障害物を見ている”というのは、意識は回避にあり、無意識は回避できないにあるのです。

病気になった時に治りたいのなら、“自分は治る”と信じ込むことが大事であって、“治りたい”という気持ちは“自分は治る”という気持ちとは意味合いが違い、その裏に“自分は治らないかも”という無意識が残っているのでよい方法ではないのです。“自分はこの先どうなるのかな?”“また悪くならないだろうか?”などという意識は、なお悪い気の持ちようということです。

楽観主義の人とか、神を信じ神にすがり切れる人、医者を信じすがり切れる人、人から聞いた民間療法でも信じ切れる人などは治りやすいものなのです。

また、末期のガン患者の中で、もう死んでもいいと思った人が治り、死にたくないと思った人が早く死ぬという話はよくあることです。この時、死んでもいいと思った人が死なないのは不思議に思われるかもしれませんが、これは意識や無意識が気を動かしのではなく、死んでもいいと、無欲になったことにより、心身が最大にリラックスした状態になり、即ち正気が一番良好な状態となり、邪気に勝ってしまったといえます。気持ちの持ちようで、気は本人の思いからすれば予想外の変化を現すので、おもしろいものがあります。

次に、人の気の持ちようが他の人の正気に影響すると言うことについて考えてみたいと思います。気功[9](きこう)で言う“意念(いねん)”は自分の意識でもって気をコントロールして健康に利用したり、武術的には人を倒したりすることに使うものです。また昔から使われている言葉では“念力”、と言う言葉がありますが、これは人が念じる(思い込みと言ってもよいと思います)ことによっていろんな現象を引き起こすというものです。“意念”も“念力”も人の思い込みによる力のことで、同じものといえます。

自分自身への影響のところでもいいましたが、人が無意識に思うことでも同じように他人に影響を及ぼすと考えられるのです。よく具合が悪そうな人に対して「お体を大切に」などと声をかけている光景を見ますが、この声をかけた人の心の裏には「自分は体調が良いので幸せ」という意識が、また無意識があるものです。また「もっと弱ったらいいのに」などという思いなどがあると、口に出して言っていることとは反対のことを意識、無意識にしていることになり、思われた人は体調が悪くなるということも考えられます。このようなことが治療の現場でも存在すれば大変なことであります。

よく鍼師の間では自信をもって治療をするとよく効き、自信がない時は効きが悪いなどと言うことを聞き、また体験をします。この人は是非とも治してあげたいという気持ちがあると、治療はいつもと同じ筈なのに、変によく効くことがあります。これらはみな意識、無意識に思うことが影響していると考えられます

唐の時代には“呪禁(じゅごん)科”、明の時代には“祝由(しゅくゆう)科”というお札などを使い治療をする科目があったといいます。これなども人の気持ちが、気を変化させるものと言えるでしょう。または私にはわかりませんが、神霊を頼りにしているのかもしれません。

また毫針[10](ごうしん)を兪穴[11](ゆけつ)に立てたままにしておくと、どんどん気が漏れていき瀉法になってしまうことが多いのですが、鍼でもっての補法というのは術者自身が知ってか知らずか、術者の気持ちが作用しているところもあると考えられます。

以上のように人の気持ちの力というものを知って、医療にたずさわる者の人格の必要性を痛感する次第であります。

③の「虚実の対象が正気なのか邪気なのか定まらない」という点について

素問「通評虚実論編(つうひょうきょじつろんへん)第二十八」に「黄帝問曰;何謂虚実?岐伯対曰;邪気盛則実、精気奪則虚」とあり、邪気の盛んなことを実と言い、正気の少ないこと、または正気が奪われたことを虚と言うとあります。ここでは邪気に実があり、正気には虚があると言って、そこから邪気の虚と正気の実はないように思われます。

しかし、素問「八正神明論編(はっせいしんめいろんへん)第二十六」には「月郭満則血気実」とあり、正気にも実が有るように言っています。

素問「気交変大論編(きこうへんたいろんへん)第六十九」には「帝曰;五運之化、太過何如?岐伯曰;歳木太過、風气流行、脾土受邪……」とあり相剋(そうこく)関係[12]を説明していて、ここから伺えることは邪気の多い少ないということではなくて、正気の多い少ないを言っています。ある臓の気が増え過ぎると、剋(こく)される臓にとっては負担となり、本来正気であるものが邪気となり得る事を言っています。

古典の中からいくつかを取り上げましたが、このように実という概念は邪気にも正気にも使われ、おまけにある臓には正気の立場なのに剋される臓からすれば邪気になることを言っています。

背景を理解した上で虚実関係を言う時は、正気か邪気のどちらが対象か把握できているでしょうが、背景に関係なく使われることも多いので曖昧になり、次の④の診断法の対象とする虚実の曖昧さにつながるのです。

④の「それぞれの診断法が対象とするものが違っている場合がある」という点について

 望問聞切[13](ぼうぶんもんせつ)という診断法がありますが、それぞれの診断法には常に虚実どちらにでも捉えられることが出来るので虚か実かは術者の任意のものとなっていることが多い。

これを説明するのにある病体を想定して問診、脈診、兪穴での診断、舌診、でもっての診断の曖昧さを考えてみたいと思います。

問診において便秘という主訴を聞く時、原因はいろいろ考えられますが、一応ここでは脾胃(ひい)と腎だけに絞って考えてみたいと思います。便秘は運化作用の狂いと考え、脾胃に原因を求め、そして便の滞りから気滞[14](きたい)、そして実と考え、胃実[15](いじつ)と判定しがちです。また下焦[16](げしょう)の弱りによって便が通じ難くなったと考えたら、腎虚[17](じんきょ)による便秘とも考えられます。

これを脈診から診ると右関上[18](かんじょう)の力の有る脈を診たら胃実と判定するでしょう。しかし右関上の力の有る脈を正虚邪実[19]と捉えて、力の有る脈を邪と捉えたら主体は脾虚[20]と判定することも出来るのです。

腎虚による便秘を脈で診ると、症状が軽い時は尺位[21]に力のないのを感じ、症状がきつい時は尺位に力強い脈を感じることが多いようです。あくまでこの力強い脈は邪気を表しているのです。

尺位に力のない時、相対的に右関上に力を感じることが多く、この時相剋関係で捉え胃実腎虚と考えられる。このような場合、胃実が腎虚を招いたと考えることが多いが、腎虚が胃実を招いたとしたら、本体は腎虚ということになる。

兪穴での診断においても実とみるのなら衝陽穴[22](しょうようけつ)や太白穴[23](たいはくけつ)の圧痛や硬結[24]に注目するでしょう。しかし衝陽穴や太白穴の皮膚の弛みや湿り気[25]に注目すれば、虚とみることもできます。太谿穴[26](たいけいけつ)にも皮膚の弛みや湿り気が同時に有れば、衝陽穴の圧痛や硬結と結びつけて腎虚胃実とできます。この時、先ほどと同じで胃実を主とするか、腎虚を主とするか任意のものであるのです。

また舌診(ぜっしん)においても、実とみるのなら舌中(ぜっちゅう)舌根(ぜっこん)部[27]の厚い苔[28]に視点が行くが、正虚邪実の病理に則り、厚い苔はあくまで邪実とし、本体は脾や腎の虚にあるとみることも出来るでしょう。

このように、四診において虚実の判定はどちらにでも捉えられることが出来、術者の知識や先入観などで違った判定になっているようであります。

⑤の「一つ、二つの虚実関係に絞ってしまうのには無理が有る」という点について

病人はほとんど虚実(加えて寒熱)が錯綜(さくそう)していると考えてもいいのではないかと思います。

例えていいますと、脾之経絡上の膝が痛く熱を持っているという時、多くは脾の正気が(絶対的にも相対的にも)虚していることが多い。そして脾経絡上の膝は気が少なく、普段より冷えて虚していたものを、使いすぎたために一段と気が通らなくなり(虚)、そして気滞(実)を生じ、それが進んで次に熱(実)を持ったのである。

それがまた進み、患部は熱の為に陰気[29]をも損なわれ、陰虚[30]も同時に有するようになるのである。この時、脾経絡上の膝の経筋[31]経脈[32]においては熱を呈しているが、そこの部分の皮毛においては陽虚[33]になっていることが多い。

また脾之臓と脾之経絡の関わりにおいては、正気の量として捉えたとき、いつも同じような状態にあるのではなく、シーソーのような関係も有るのです。食事をして脾之臓に正気を増さなければならない時、脾之経絡に有る正気は脾之臓に流れ、反対に脾之経絡上にケガなどをして、脾之経絡上に正気を増やさなければならない時には、脾之臓から正気が流れて来るのです。このように、臓と経絡における正気の量は一定ではなく、多い少ないがあり、一種の虚実関係にあるのです。

膝の症状から関わりが薄れますが、臓腑間においては脾が虚なので、腎は相対的に実している。しかし、飲食すると一時正気を脾に廻さなければならないので、飲食以前からみると腎の正気は虚し、脾の正気は実となる。脾と腎それぞれにおいて時間的に虚実の変化が有り、脾と腎の虚実関係においても時間的な入れ替わりがあるのです。

またこの時、体表と深部という意味の表裏として考えると、飲食することによって、表の正気も裏である脾に集められ、表は虚となる。故に発汗したり冷えたりする。四肢と脾の関係も同じことが言え、四肢は虚となり冷えてくる。当然膝への正気が少なくなるので、膝は悪化し易い。膝は下焦という意味から腎との関わりが深く腎が虚したことによっても膝は悪化し易い。脾の臓と脾の経絡という意味においての表裏関係から考えて、生命維持には臓と経絡を比べると臓の方が重要なので、脾の臓には普段から正気が集まり、脾の経絡は虚しぎみである。そこに飲食することによって、この虚実関係は一段とひどくなるのである。当然、膝は悪化し易い。

以上のように、人の身体の中では同時に色々な関係においての虚実関係があり、環境の変化(飲食、思考など)により、その虚実関係が変化するというものなのです。寒熱[34](かんねつ)においても同じことが言えます。

このように、一つの身体の中には色々な虚実関係が存在しており、それを一つの虚実関係(証)に絞ってしまうのはおかしなことと思います。ただ一つの症状(ここでの例えでは膝痛)だけをとることが治療とするのなら、また気功的な鍼だから一つの兪穴から身体全体の正気を増やせるというのなら何の問題もありません。

しかし“未病(みびょう)を治す”とか“自然治癒力を増す”などというように全体の正気をバランスよく増やすことが目的とした時、また気功的な治療ができないのなら、病人の状態を正確に把握し、養生法を指導するなり治療を加えるなりを的確に行なえなければいけないと思います。それには大ざっぱな診断ではいけないのではないでしょうか。

⑥の「補瀉手技の結果による虚実の判定は曖昧」という点について

鍼治療において瀉法は置鍼[35](ちしん)をするなり刺絡[36]をすることによって、一定気を瀉すことが出来ますが、正確な補法というのは難しいと思います。特に一つの臓、腑、経絡、のみの補法となれば非常に難しいことです。毫針(ごうしん)での補法というのは多かれ少なかれ意念(人の意識による力)や術者の正気に頼らなければならないと思いますが、意念を使ってでも臓別、腑別、経絡別にキッチリと補うことは非常に難しいことではないでしょうか。

兪穴を使うと臓腑経絡の区別が自然にされているようではありますが、実は違うようです。“衛気[37](えき)は全身を被っている”または“肺は表を司る[38]”ことにより、一つの経絡を目標にしたつもりが、実は衛気または表を介して他の経絡にも影響していると考えられるからであります。(或いは肌肉、筋、骨、血脉を介してかもしれません)当然、他の臓腑にも影響していると考えられます。全体の正気を増やすという意味においては補法になりますが、その結果から診断(証)が正しかったか否かを判断するのには難しいところがあります。

また置鍼という手技から考えると、術者による影響が少なく、鍼のみの影響が主となると思われます。この時、多くは鍼を通して身体内の気が漏れて出ます。鍼先の深さにより正気が漏れたり邪気が漏れたりし、邪気に当たったとしても長時間置いていると、次には正気が漏れて出てきます。この原理を上手に使うことでバランスをとることが出来ます。 

しかし問題はバランスがとれたとしてもその手技が補法なのか瀉法なのかの捉え方が、人によって違ってくるのです。兪穴にあった邪気を漏らしたことを対象にするのなら瀉法であるし、邪気が出て次に正気が寄って来たことに注目すれば補法になるのです。

このように手技による結果から虚実を判定しても人により違ってくる曖昧さがあるのです。

 以上のように鍼治療の根幹である虚実の判定がいかに曖昧であるかお分かりになられたと思います。しかし、これを打開するにはどうしたらいいのでしょう。

  感覚を鋭くするには

それには気に対する“感覚を鋭敏にかつ正確にすること”です。

気のレベルでの診断というのは客観性がないかのように言われますが、それは感覚が一般的なレベルの人から見ればの話であって実はそうではないのです。気のレベルでの診断というのは感覚の鋭い人の間において、またある一定のレベルにおいては客観的なものなのです。

例えていうと、身長が180センチの人の、頭頂部に停まっている蠅(はえ)は、身長が2メートルの人にとっては容易に見ることができますが、身長が150センチの人には見えません。身長が180センチ位だったら、背伸びをすればどうにか蠅が見えます。

身長が180センチ以上の人の間においては蠅の存在は客観的なものなのですが、それ以下の身長の人には客観性のないもので想像のことでしかないのです。しかし190センチの人の頭の蠅は、180センチの人にとっては未知なるものなのです。

これと同じことが感覚の鋭い鋭くないということと、客観性についても言えると思います。感覚の鋭い人にとっては客観性の有る事が、感覚の鋭くない人にとっては客観性のない未知なるものなのです。

現代科学や一般の人が基準としているレベルが150センチとしたら、気に対する感覚の鋭い人の世界はそれ以上のところにあり、その人達の間には客観性があるのです。そしてそれは160センチのところのこともあり、180センチまたは2メートルのところのこともあるのです。個人の能力が180センチのところだったら、160センチや180センチのところでは客観的に感じられますが、180センチ以上のところのことは分からない世界なのです。

このように人の感覚は平等ではなく個人差があり、自分のレベルの範囲内においては客観性があるのです。だから感覚の鋭いことに越したことはないのです。

 “気に対する感覚を鋭敏にすること”に関しては生まれつき感覚の鋭いことが一番でしょう。そうでない方には訓練により鍛える方法がありますが、これにもある程度の先天的な素養が必要と思われます。また先天的な素養が有るからといって、訓練すればみんながみんな同じレベルまで良くなるかと言えばそうではなく、その人なりの上限があるようです。

また先天的に鋭敏である人、または鋭敏になった人の感覚が正確であるかというと、必ずしもそうではないのです。気という微妙なものを感じ判断しなければならないのですが、その微妙なところというのは前述しましたが、本人の思い込みで白が黒に、黒が白に見えてしまうのです。多くの人が信号機の色は分かっても、0.1ミリの小さな点の色が分かりにくいのと同じだと思います。

またその人のその日の体調や天候の加減、病人と医者との人間関係などでも感覚が狂うこともあります。兪穴[39](ゆけつ)を診ようとして病人の気を感じているつもりが、自分の手の気を感じていたり、鍼を通して病人の気を感じていると思っていたものが実は自分の指の気だったり、その術者の指の気も皮膚表面の気と深部の気では感じるものが違ってきます。温補[40](おんぽ)の鍼を受けているのに冷たく感じたりするのもこれと同じようなことで、温補の鍼をすると冷えの気が鍼下に集まり、集まってから外に出ていくことが多いのです。この時の鍼下に集まった寒邪を感じて冷たく感じるのです。そしてまた掌の部分と指の部分では感じ取れるものが微妙に違うこともあるし、手を患者の皮膚に接触させて感じるものと、一定の間隔をあけて感じるものとでは感じられるものが違います。

気を感じる時は自分の気が基準となるので、自分に合わない気は邪気と判断してしまいますが、自分の気がすべて正気という人も少なく、邪気を多く持っている者にとっては邪気が正気に感じられることもあるのです。

このように人の感覚というものは鋭敏になっても、曖昧さは残ります。その曖昧さの打開策として“正気を分類して完全なる補法が出来る道具立てを持つこと”が必要になってくるのです。

  完全なる補法が出来る道具

 人の正気を分類して完全な補法が出来る道具が有るものなら、それを使った治療から振り返って、診断が正しいかったか否かが判断出来ます。そしてそこから正しい病理が分かり、正しい病理から正しい生理が見えてくるでしょう。蛇足かも知れませんが、そこから正しい養生というものも見えてくるのです。

毫針でもって意念(無意識も含めて)を使って補法をすると、その術者の気が大半を占めます。質量の多いテイ鍼などを使って補法をすると、鍼の材質としての気が中心に影響します。鍼に使われている金属の種類は金、銀、銅、鉄などが多く、それらの気は人の気に当てはめると陰気と陽気か位にしか分けられません。術者の正気が全く邪のないもの、または鍼の形状が補瀉を完璧にできるものだとしても、術者の正気は一つのものであり、陰気と陽気とにも分けられていないのです。

故に金属による分類に頼ることになり、やはり陰気か陽気の二つ位にしか分けられないのではないでしょうか。術者の意念でもって気を分ける方法もありますが、曖昧さが残り元の木阿弥になります。

 完全な補法が出来る道具があっても、陰気と陽気の二つにしか分けられないのだったら、現状からの変化は少ないと思われます。もっと細かく分類できるものが必要であります。

そこで手前味噌になりますが、私の場合は「漢方の臨床」の第45巻・第十一号に発表しました私考案の“五行鍼(ごぎょうしん)”を使うことで人の正気を五つに分類して補う事が出来るようになりました。詳しくはそれをお読みいただければよろしいかと思いますが、簡単に説明いますと「形状と色との組み合わせにより誰が使っても五行別(五臓六腑別)の気を補うことが出来る接触鍼(せっしょくしん)のこと」です。

完全な補法ができる道具はあくまで希望であり、現実には人間のすることに完全なものはありません。「五行鍼」も完全というよりは、より完全に近いものという方が適当でしょう。しかしこれを使うことによって、私の感覚は、以前に比べ飛躍的に正確になりましたし、私の周りの「五行鍼」を使う鍼師の先生方も同じく感覚が正確なっています。

  ほとんどは正虚邪実

 感覚が鋭くなってくると、各診断法において虚実は何を対象にしているのかが明確になり、基本はすべて正虚邪実であることがあらためて分かってきました。そして身体の中においては“対立しながら協調関係にある陰陽の関係、そして虚実関係”が幾つも絡み合っていることがわかります。臓腑と経脈、経脈と絡脉、部分での表と裏、大きな意味においての表と裏、上と下。また五行間における相生相剋の関係は常に成り立たないことも分かってきました。

寒熱[41](かんねつ)の成り立ちも明確になり、多くの熱は正気を補うことで足り、熱を瀉すという行為をすることは非常に少ないものであることも気づきました。そして気を補うだけではダメで飲食して初めて命が戻ることもあると知りました。大げさに言うと、身体の(気としての)構造が見えて来たのです。これらのことを補瀉も考え併せて、今一度整理してみます。

  気だけでは成り立たない

人の身体の構成成分は気、血[42](けつ)、津液[43](しんえき)でありますが、臨床で出会う患者さんはほとんどが気を補うだけで間に合っていました。ところが飲食の出来ない患者さんと初めて出会って、気を補うだけでは生命は成り立たず、口から血と津液の材料である食物を入れなければならないことを実感しました。転落事故によって脊椎損傷で絶食状態にある患者さんを治療したとき、3日間は気を補うだけで脈が好転していたのが、4日目になると脈が変化しなくなって来ました。そのとき重湯を少しすすっただけで、脈の好転と自覚的好転をみたのです。

気を補うだけで間に合うと思っていたおごりを知り、気と水穀[44](すいこく)が合わさって初めて身体を維持でき、鍼で補えるのは気だけであることがわかりました。

このように、すべてではありませんが鍼における補瀉という治療の意味が見えてきたように思います。そして、そこから湯液における補瀉とは、灸における補瀉とは何であるかも見えてきたような気がします。

 鍼における補瀉

私の場合は道具により気を五種類に分けましたが、人によっては幾つにでも分けていいと思いますし、意念で以てでもかまわないのです。それが正確に分類が出来るのなら、どのようなものでもいいのではないでしょうか。

鍼における補法にはいろいろありますが、五行鍼を使うと、兪穴に外から正気を補うという意味においての補法[45]をすることが的確に出来ます。それをすることによって得られたことは、補法をすると、多くは正気が入って行くのと入れ替わりに邪気が自然に外に出るということです。そしてその時、出てくる邪気は二層になっていることが多く、はじめに出てくる邪気は寒邪で、次に出てくるのは熱邪のことが多いようで、熱邪を正気と間違えやすいので注意を要します。このように邪気が二層になっているのは「内経[46](だいけい)」にある通りのようです。

 脈診

この時、全体を判定するのに一番適しているのが寸口における脈診だと思います。脈診における寸口、関上、尺中の臓腑配当には幾つか違った見方がありますが、私は自分の実践から、寸口右は肺、左は心、関上右は脾、左は肝、尺中は左右共に腎と認識しています。

しかし腑に関しては定まった寸、関、尺という規則性を未だに見い出してはいません。それでもほとんどの症状は臓を調えることで対処出来、陽の経絡経穴を使うのはその経筋経絡の病の時ぐらいです。腑と脈に関しては、今後の私の課題であります。

一定脈が調うと、ほとんどの症状は消失若しくは緩解をみます。脈においても、兪穴と同じく正虚邪実の構成であるようです。多くの力の有る脈、堅い脈はほとんどが邪気であって、正気とは別のものです。邪気と正気は鮮明に分離して存在しているのではなく、一つの脈の中に正気と邪気が混在しているのです。

水が正気でゴミが邪気だとして、器に水をはり、その中にゴミが混ざっているのに似ています。そして補法をすることによって、多くは力の有る堅い脈は穏やかなものに変わり、水が溢れて、ゴミを洗い流すのに似ています。

また脈診により五臓を五行の関係でみると、相生(そうせい)関係、相剋(そうこく)関係は見られる時と見られない時とがあり、常時存在するものではないようです。

脈診は全体を診るのに都合のいいものなのですが、脈診時に注意をしなければならないことにも気がつきました。それは脈診時に患者の前腕の回内、回外の程度でも、考え事をしただけでも、目の開閉の差だけでも、からだの一部分例えば肩や腰、腕に知らぬ間に力が入っているだけでも、術者が脈を診る為に手首に触れていることなどによっても、身に付けているジュエリーや時計の材質や形の違いによっても、着ている服の色の違いによっても、枕の高さの違いによっても、脈は変化してしまうのです。

また脈は臓腑ばかりを反映するのではなく、経筋経絡の異常も同時に反映するのです。だから捻挫をしている、打ち身が有る、たんこぶが有るというだけでも脈に反映されるのです。

このように、脈診には体中のいろんなことを同時に反映されているのです。そのことがわかった上で脈を診るのか、知らないまま脈の一面だけを診るのかの違いで脈診の意味はかなり違ったものになるのです。

 

  舌診

舌においても正虚邪実の構成であり、厚い苔はほとんどが邪気を現していて、補うことでほとんどが消失していきます。

その苔が白色であれ、黄色であれ、黒色であれ、正気は虚しているのです。白色、黄色、黒い色というのは邪気の程度の現れといえ、邪気が多いほど正気は少ないといえます。

また紅刺、紅点は熱だ、実だ、といわれますが、熱は陰虚の熱であり、実は邪実であって正気の実ではないのです。根っこには正気の虚があり、正気を補うことでほとんどが間に合うようであります。

  臓腑と経絡の関係

五臓における虚実をいう時は、正気の多い少ないを比べていいます。ある臓が実だから瀉すという短絡的な治療は良くないのではないでしょうか。

臓間における虚実はあくまで他の臓と比べてのことであって、邪の実が有るわけでもなく、もし体全体が虚しているのだったら、補法でもってバランスを調えるのが適当ではないでしょうか。

また実の臓にかかわる経絡兪穴の正気が、必ずしも実とは限らないのです。実の臓と、それに関わる経絡兪穴にはシーソーのような関係にあることもあります。すなわち、実と診断した臓にかかわる経絡兪穴の正気は虚であり、この時の治療は補法が適当になります。

 また臓に熱を持っている場合も同じようなことが生じ、例えば肺に熱を持っている場合、いろんなケースがあるのですが、経絡に未だ熱の伝わっていないときには、兪穴を温補することによって肺の熱がおさまることもあるのです。

 このように実だ熱だといっても、それが臓のことであって、経絡兪穴は反対のことも多くあるのです。

  湯液における補瀉

以上のことから湯液における補瀉を考えると、いろいろな薬が身体の中に有る幾つかの虚実関係に対して、同時に補い瀉すという働きをして、その結果、全体的な働きとして瀉剤とか、補剤という分類をされているのではないでしょうか。

だから瀉剤だからといっても、ただ単に瀉すのではなくて、補うことによって正気の力で、邪実を瀉すようなことも有るように思えます。証(診断)が正しかったら後は薬が上手に治療をしてくれると思われます。

そう考えると、湯液では瀉法を使う病人だからといって、安直に鍼の手技としての瀉法を用いるのは非常に危険なことになります。

また、湯液においては人の意念の介在するところが少ないので、論理性が存在し易いものと思われます。

  灸の意味

灸は一般的には温補[47]に使い、また補瀉があるとも言われます。温補に関して考えますと、

灸による温補というのはある兪穴を選択して、ある臓腑経絡にのみ効かそうとしても、補った陽気のいくらかは衛気を介してか、また別の何かも加わってかは分かりませんが、結果的に他の臓腑経絡をも補ってしまっているように思います。

 だから全体に効くという意味においては便利なのですが、治療範囲の不正確さという意味において、診断力の向上にはつながりません。

補瀉の点について考えますと、温めるということから補法、特に温補に使えるのは分かりますが、瀉法とは何を意味しているのかが難解なのです。灸を数多くすえたり大きくしたりすることによって、火傷と同じ意味になるものとしたら、火邪を治めるために正気を消耗することから、正気を瀉していることになります。

一つの臓腑を補うことによって相対的な虚実関係を無くすという意味においての瀉法を言っているのなら、補法と表現すればいいことです。

打膿灸[48](だのうきゅう)のように膿を出す為に灸をすえることを言うのでしょうか。この時、膿が初めから有ったものではなく、灸をすえたが為に生じたものなら、灸は火邪であり、膿は火邪の化したものであり、体全体の正気は増えず返って減少したものと考えられ、結果的に瀉されたのは正気ではないのでしょうか。

しかし灸をすえることによって、体内に有った邪気がそこに寄って来て、膿となり出てくるものならその限りではありません。

膿が初めからあり、その上に灸をすえ、その力で膿を出すのなら、灸は補法となり、その力で邪を瀉したことになり問題はありません。

また長年残っているような灸痕[49](きゅうこん)をよくよく観察すると、正気が少ないことに気がつきます。これは虚したところに灸をすえたので、灸痕には元々正気がないのではなくて、灸痕を付けることで、気が通り難くなり正気が少ない状態(虚)になったと思われます。

これは古い灸痕を持った患者さんを診断すると必ず取穴は灸痕のところになることや、自分の患者さんの中で長年に渡って灸痕を付ける程の治療を続けている人を、観察し直しても同じことのようだったからです。

そしてこのような灸痕に灸を含めて補法を施すと、症状の緩解をみるのです。このことから、灸痕をつけて気が通じ難くすることを瀉法とするのなら、やはり正気を瀉しているのではないでしょうか。

以上、私共の感覚が鋭くなって分かったことをいろいろ述べましたが、虚実に関する疑問も含め、これらがすべて正しいとは思いません。しかし、150センチだった者が160センチになったと考えれば進歩だし、患者さんへの迷惑も少なくなったものと信じています。医療人としては患者さんに迷惑をかけず、より良い治療を提供することが努めではないかと思っています。その意味においても、虚実をより明確なものにして行かなければならないのではないでしょうか。

                               以上

                             1999年8月

 

[1] 東洋医学的診断の一つで、正常より多すぎることを実、少なすぎることを虚とする。

[2] 気を増やす治療法。

[3] 気を減らす、若しくは抜き取るという治療法。

[4] 東洋医学的診断法のことで、望診、問診、聞診、切診の四つをいう。

[5] 生体を構成する気、または生体にとって益する気。

[6] 生体にとって害する気。

[7] 気を瀉す方法。

[8] 気を補う方法。

[9] 人の生命の基本を気として、自分や他人の意識でもって、自分や他人の気をコントロールするもの。

[10] 古く鍼には九種類あり、その中の一つが毫針であり、現在一般的に使われている皮膚より刺入する鍼のこと。

[11] 一般に言われるツボのこと。

[12] 五行説という宇宙のものを木火土金水の五つに帰属させて、物事の成り立ちを考える方法の中で、木は土を、土は水を、水は火を、火は金を、金は木を剋す関係をいう。

[13] これは診断法を四つに分けていったもので、望診は視覚的に診断をする。問診は患者の訴えから診断をする。聞診は患者の声などの音から診断する。切診は患者に触れることにより診断する。

[14] 本来、気は常に流れているのであるが、滞った病的な状態。

[15] 胃に邪気が多く有るとか、六臓六腑の中で相対的に胃に正気が多い状態。

[16] 体を上中下に分けたうちの下の部分で、だいたいへそから下をいう。

[17] 腎の臓に正気が少ないことの表現で、東洋医学的診断名にも使われる。

[18] 手首の、関節の平側の親指よりの動脈を使っての診断法の中で、親指側から肘に向かって寸口、関上、尺中というの三つの位置を定めている。そ中の関上のことである。また、寸口、関上、尺中にそれぞれ浮(脈動を感じる中で、皮膚側で感じられる脈)沈(浮に対して骨側で感じられる脈)を分け左右合わせて12種類にそれぞれの臓腑を配当し、右関上は脾胃を診る。

[19] 本来の東洋医学では当たり前の考え方なのですが、正気の虚に乗じて邪気が増えた(実)状態をいい、正気の虚に意識をした表現。

[20] 脾胃(現代でいう消化器系のこと)の虚実をいうとき、実の時は胃実、虚の時は脾虚というのが慣習になっているのでこう表現しました。

[21] 脈診の尺中のことで、臓腑では腎を診、上中下では下を診、また大腸なども診ます。

[22] 胃経のツボ。

[23] 脾経のツボ。

[24] 圧痛や硬結は、一般に実の判断材料になっている。

[25] 皮膚の弛みや湿り気は、一般に虚の判断材料になっている。

[26] 腎経のツボ。

[27] 舌診において、舌中は脾胃を、舌根は腎を診る。

[28] 舌診において多くは邪実を診、中には正気の実とみる方もいる。

[29] 正気の冷たいもので、陽気を合わして正気とするものと考える。

[30] 正気は陰気と陽気とに分けられる。相対的に陰気が少なくなった状態をいう。

[31] 臓腑にかかわる筋肉の流れで、経絡と同じような筋を走る。

[32] 絡脉と合わさって経絡を構成する。経脈は幹線道路、絡脉は支線道路のようなもの。

[33] 相対的に陰気より陽気が少なくなった状態をいう。

[34] 人の体や症状を分類する一つで、寒は冷えの属性を、熱は熱性への属性を意味する。

[35] 鍼治療の中の一つで、鍼を体に刺して、術者が手で支えずに放置し、効果を得る方法。

[36] 経絡上の浮いた血管から血を漏らす治療法。

[37] 体表にある正気の一部で、体外からの邪気の侵入や、体内からの衛気以外の、正気の漏れを防ぐ働きがある。

[38] 肺は衛気も含め、体表部分である皮膚など肉体的のものに深くかかわる。

[39] 一般にいうツボ。

[40] 体を温めることを目的にした治療。

[41] 診断するときに、体全体または部分が冷えに傾いている(寒性)か、熱に傾いている(熱性)か分ける表現。

[42] 西洋医学でいう血とは、まったく違った概念のもので、身体を構成する大きな一つ。

[43] 人体において血以外の液体成分。

[44] 飲食物。

[45] 人体内の他のところから正気を引き寄せてという意味の補法もある。

[46] 東洋医学の原典的書物の、『黄帝内経』のこと。

[47] 補法の中で、特に陽気を補うことをいう。

[48] 膿を出すことを目的とした灸療法。

[49] 灸をすえた痕。