「方と員」に対する二つの解釈
「黄帝内経[1](こうていだいけい)」の素問[2](そもん)「八正神明論編(はっせいしんめいろんへん)第二十六」と霊枢[3](れいすう)「官能(かんのう)第七十三」に“方と員”についての記載が有ります。しかし二カ所でまったく反対のことを言っています。すなわち素問「八正神明論編第二十六」には「瀉[4](しゃ)必用方(ほう)」「補[5](ほ)必用員(いん)」とあるのに、霊枢「官能第七十三」には「瀉必用員」「補必用方」となっているのです。瀉方(しゃほう)に方を用いるのか員を用いるのか、また補法(ほほう)には員を用いるのか方を用いるのかが、定まっていないのです。これに対して多くの注釈家は、霊枢「官能第七十三」の“方と員”を書き間違えたもの錯簡(さっかん)として、素問「八正神明論編第二十六」で言うように霊枢「官能第七十三」の中の“方と員”も虚実[6](きょじつ)のことであるとしているのです。
しかし私は検証から霊枢「官能第七十三」の中で言う“方と員”というのは形状のことを言っているのではないかと解釈しています。そこで、この“方と員”について分析してみます。
素問「八正神明論編第二十六」の中の“方と員”について、述べられているところは、次の如くです。
「帝曰、余聞補瀉、未得其意、岐伯曰、瀉必用方、方者、以気方盛也、以月方滿也、以日方温也、以身方定也、以息方吸而内鍼、乃復候其方吸而転鍼、乃復候其方呼而徐引鍼、故曰瀉必用方、其気而行焉、補必用員、員者行也、行者移也、刺必中其栄、復以吸排鍼也。故員与方、非鍼也、故養神者、必知形之肥痩、栄衛血気之盛衰、血気者、人之神、不可不謹養。」これを私流に訳しますと次のようになります。(私は漢文の翻訳が専門ではないので、間違いもあると思いますが、ご了承ください。)
「黄帝が、余は補瀉のことが解っていないので、このことについて聞きたいと言った。それに対して岐伯(ぎはく)が答えた。瀉は必ず方に用い、方は気にあっては盛んをいい、月にあっては満ちるをいい、日にあっては温かきをいい、体にあってはしっかりしていることをいい、息にあっては吸うをいう。この実した時に針を入れ、そして再び実するのを待って、息を吸った時に針を転じる。(この時転じるは邪気[7]がまだ深いところに有れば、なお深く入れることと思われる。または左に捻ることとも考えられる、何故ならば針を左に捻ると気は竜頭[8]の方へと流れるからである)。次にまた実するのを候い、息を吐いた時に徐々に針を抜く。故に瀉法をする時は必ず方(実)に用いるのである。そうするとその気が流れるのである。補は必ず員に用い、員は行くことであり、行くとは移ることであり、充実しないということである。針を刺すには必ず栄(えい)の部分に針先を当て、(この時の栄とは、営気[9]の循っている部分と思われ、少し深い目の部分も含めてより深い部分のことだろうと思われる)また息を吸った時に針を抜く。故に“方と員”は針のことではない。故に神[10]を養うとは、必ず体の痩肥と栄衛気血[11](えいえきけつ)の盛衰を知らねばならない。気血は人の神であって、それを養うことをおろそかにしてはならない。」
この中では方とは実のことをいい、員とは虚のことをいっていると考えていいのではないかと思います。
次に霊枢「官能第七十三」の中にある、“方と員”について述べられているところは次の如くです。
「瀉必用員、切而転之、其気乃行、疾而徐出、邪気乃出、伸而迎之、揺大其穴、気出乃疾、補必用方、外引其皮、令当其門、左引其枢、右推其膚、微旋而徐推之、必端以正、安以靜、堅心無解、欲微以留、気下而疾出之、推其皮、蓋其外門、真気乃存、用鍼之要、無忘其神、」
これをまた私流に訳すと次のようになります。
「瀉は必ず員を用い、皮膚に接してそして刺入する。その気が流れる。速く目的のところまで刺したら徐々に気が出てくる、邪気が出てくるのである。たわんだ針を伸ばすようにして、これを迎える。その穴に刺した針を大きく揺らし邪気を出したら速く穴を閉じる。
補は必ず方を用いる。穴の皮膚を外側に引いて張り、そこに針を当てる。左の手でもって押さえた穴を引き上げると同時に右手で持った針を皮膚に押し当てて切皮[12]する。わずかに右に捻り徐々に針を入れてゆく。必ず竜頭を持ち心を静かに安定させて、気持ちを弛めることなく、一番虚のところに針を止めて、手より気を下し入れる。正気が充実したら速く針を抜き、その皮膚を押さえ、穴に蓋(ふた)をする。患者の真気[13]は漏れることなく即ち体に残る。針を用いる時の要はその神を忘れないことである。」
このように「官能第七十三」の、“方と員”を虚実として読むと筋が通らなくなります。ここでは“方と員”のことを、形のことを言っているように読むと筋が通るのです。
辞書を引きますと、方という意味の中には角という意味もあり、員という意味の中には円いとか球形というもあります。その意味を採ると“方と員”の意味は形状のことと考えてもいいのではないかと思います。
形状と運動と気の流れ
ではそれは何の形状のことなのでしょうか、二つ考えられるものが有ります。一つは針先の形状のことで、もう一つは押手[14]または刺手[15]のことです。
まずは針先の形状として考えていこうと思います。ここで角と言っても何度の角度をもって角とするのか、また丸いとか球と言っても半円とか半球は含まれるのかなど解明しなければならない疑問点はいくらかあります。文字からの分析だけでは「内経」の言わんとしていることには到達できそうもありませんので、文字からだけではなく、感覚というものを使って検証し、分析して行きたいと思います。
人の感覚を頼りにしてゆくと、客観性、論理性に欠くのではないかと指摘されるかも知れませんが、「内経」を読んでゆくと、平均的な現代人が持っている感覚(五感)の程度では、「内経」で言わんとしていることは解らないように思われます。「内経」は感覚の鋭いものでしかわからない、また感覚の鋭いものの間でしか成立しない論理的な世界のようなのです。私の感覚が「内経」を理解するに値しないかも知れませんが、私の感覚でもって分析して行きたいと思います。
私は以前より気と形状や動きとの間には、なにか法則性が有るのではないかと直感していました。一番身近にあるのは、洗面台の水を抜いた時に最後は渦が右に巻くことです。また台風の目はなぜかいつも左巻き(静止衛星から見ると)なのです。これらのことを考えると、一つの仮説が出来ました。それは、気が動くとき、右に回転しながら進むのではないかということです。だから大気の流れは、低気圧は上に向かって大気が流れ、地上から見ると右廻りに回っており、高気圧は上から下に向かって大気は流れて、上から見ると右廻りに回っているのではないかと考えられます。
私はこのことを自分の感覚として感じられないものかと考えて、プラモデル用のモーターのシャフトに、プラモデルの車(ミニ四駆)のタイヤを直接付けて、タイヤが左右どちらの回転も出来るように作りました。そしてタイヤを向かって左回転さすとタイヤから気が流れて来る抵抗を感じ、右回転さすと気を吸い取られることを実感できました。
ということは、右回転に見える方から向こう側に向かって気は流れて行くということになります。これは大気の流れと回転方向の完璧な実証にはなりませんが、一定通じるのではないかと思われます。
次に気が進むと右巻きの渦になるようなので、反対に右巻きしながら内の方に入って行くような渦巻きの絵は、手前より向こう側に気を流しているのではないかと考えられます。実際にそれを絵に書いて感じてみるとその通りでした。絵ではなく針金やひも等で作っても同じでした。
ここまでの結論として“気が進む時、右回りをする”“物を右回りさせると、右回りに見えている方から反対の方に向かって気が進んで行く”“外から内に進むに従って右回りする渦巻きの絵でも立体でも、右回りに見える方から、反対の方に向かって気は流れる”ということです。
この結論の中から、気はものの動きの中からのみ、気の動きや流れを生じるのではなく、静止したものでも形状の違いにより気の動きや流れを生じることができるということがわかってきました。
以上のことから霊枢「官能第七十三」の中で言う“方と員”は、形状のことをいっているのではないかという私の仮説が少し真実味を帯びてきました。話を“方と員”に戻します。
方と気の流れ
まず針の形状としての方の意味を考えると、方とは角ということなのですが、角にはいろんな角度があり、定まった角度をもって角とは言わないのです。20度も、90度も、120度も皆角と言えば角なのです。
また霊枢「官能第七十三」で対象にしている針は刺入する針のことのようで、接触針[16](せっしょくしん)ではないようです。そう考えると針体は多分円柱であると思われます。なぜならば角柱であれば刺入すれば、三稜鍼[17](さんりょうしん)が皮膚を切るように、角によって傷をつける恐れがあるからです。そう考えれば、ここでの針の角度というものは針先のことか、または竜頭のことでしかありません。また針先は刺し込んで行かなければならないことを考えると、180度よりは小さい角度だと思います。竜頭に関しては、針先より竜頭に重きをおくとは考えにくく、ここでの結論としては、方は針先のことで角度は180度より小さいということになります。
針先は立体ですが角度というのは針先の、投影図の角度のことと考えて差し支えないのではないかと思います。
まずは紙の上にいろんな角度を書いて検証していきます。紙の上に鉛筆と定規で色々な角度を作ってみると、90度から鈍角の角度は、角の先から内の方に向かって気が流れています。30度とか45度のような鋭角の角は反対に、角の内より先の方へ気が流れているのがわかります。鋭角と鈍角での気の流れが、何度を境に逆転するのかは、はっきりした角度はわかりませんが、これから検証してゆくのに不都合はあまりないと思います。
次に立体的に考えると円錐という形状になり、その投影図の先の角度が鋭角か鈍角かの差を気の流れで見るのに、身近に都合よく調べたい形のものが有ればいいのですが無いことが多く、これら形状に関しては私自身が金属などで作ったものを使って検証しました。以後出てくる形状も同じように作ったものを利用しています。話を元に戻します。鋭角(45度以下)は先より気が出ていて、鈍角は先より気を吸い込んでいました。反対に鋭角の底面からは気が吸い込まれてゆき、鈍角の底面からは気が出ていました。これらを円柱の先に細工しても、同じような気の流れとなりました。
これを針先に考え合わせると、針先の角度が鋭角か鈍角かで、気の流れが、針から出て行くのか反対に吸っているのかの区別が出来ます。故に補法に使える針か、瀉法に使える針かの分類ができるのです。
員と気の流れ
しかし、霊枢「官能第七十三」での補瀉の分類は角度の問題ではなく、“方か員”の問題なので次に員について考えてゆきたいと思います。
方の時と同じく紙の上に鉛筆で円を書くと、円の外と内とでは、気の充実度が違うのがわかると思います。これは気が外より内に向かって流れている為であると思われます。また半円を書いてみると、凸の方から凹の方へと気が流れて行くのがわかります。
次に立体的なものを考えてみると、球形と半球形ということになりますが、球形というのは世の中にいくらでも有ります。水晶玉にしてもベアリングの球にしても皆同じで、気は球の中に吸い込まれて行きます。半球形は凸側より気を吸い込み、底面側に出て行きます。
これを針先に考えあわせると、球形の針先というのは考えられないので、半球形ということになりますが、これを円柱の先に細工すると、その先より気を吸い込んでいるのがわかります。ということは針先が半球形のものは瀉法に使えるということになります。
方のところでは、角度により補瀉の区別が出来ましたが、員に関しては瀉法のみということです。ここから察するに、方とは鋭角のことをいっているものと思われます。そう考えると霊枢「官能第七十三」の“瀉必用員”“補必用方”という意味が形状のことを言っていると考えて良いのではないでしょうか。
刺手と押手
またもう一つの“方と員”とは、刺手と押手の形のことではないかということに関して考察してみたいと思います。
方と員との形状としての意味するところは同じなのですが、押手と刺手というのは、多くは親指と人差し指で作るもので、その親指と人差し指で作る形が、方か員かで補法、瀉法の違いを作ることができるということではないかと思われます。
どういうことかといいますと、方というのは親指と人差し指が伸ばしぎみで針を摘んで、親指と人差し指が作る角度が鋭角なことを言い、員とは親指と人差し指で作る形が、円に近い形を言い、方だと指先から気が出て行き、円にすると指に気を吸い込まれるのではないかと考え、この仮説を感覚でもって調べると、思った通りの気の流れを感じられました。
ですから補法に使う時は指を伸ばし、指から出る気を針に通し、それをまた患者の兪穴[18](ゆけつ)より注ぎ込むようにするのです。どちらかと言うと刺手に用いられるものではないでしょうか。この時、押手は気を感じることを主にするのがよろしいかと思われます。
瀉法に使う時は親指と人差し指で丸い輪を作るようにして針を支えると、針を通して兪穴の気を吸い出すことになり瀉法になるのです。補法と違い、刺手、押手共に使えますが、どちらかというと押手に使って、刺手は気を感じることを主にしている方がよろしいかと思われます。押手、刺手の使い方に関しては私の好みで言ったことで、個人個人自分に合ったやり方でいいと思います。
結び
このように「官能第七十三」で言う“瀉必用員”というのは針先でいうと、卵形を使うということであり、押手と刺手でいうと、親指と人差し指で作る形を丸くしなさいと言っているのです。また“補必用方”というのは針先でいうと、すり下ろし[19]、またはノゲ[20]の鋭角なものを使うということであり、押手と刺手でいうと、親指と人差し指を伸ばしぎみで針を持ちなさいということでしょう。
針先のことか、押手、刺手のことか、どちらか一つにしぼった方がよかったかも知れませんが、どちらとも考えられますので、無理をせずそのままにしておきます。
以上のように霊枢「官能第七十三」で言う“方と員”の意味は、素問「八正神明論編第二十六」でいう虚実のことを言っているのではなく、形状のことを言っているものと思われます。そしてその形状を使い分けることによって補瀉が出来ると説いているのです。 また「八正神明論」の中の“故員與方.非鍼也.”の意味は、「内経」の中での“方と員”の意味が、すべて“針のことではない”と読むのではなく、「八正神明論」の中に限っては“針のことではない”と読むべきものだったと解釈しています。
以上
[1] 東洋医学の原典的書物。
[2] 霊枢とともに『黄帝内経』を構成する。
[3] 素問とともに『黄帝内経』を構成する。
[4] 東洋医学的治療の専門用語で、多すぎるものを弱めたり、減少さす意味に使う。
[5] 東洋医学的治療の専門用語で、少なすぎるものを強めたり、増やす意味に使う。
[6] 東洋医学的診断の専門用語で、虚は少ないことを意味し、実は充実または余ると意味する。
[7] 体にとって害する気。体にとって益する気、または構成する気を正気(せいき)という。
[8] りゅうずと読み、鍼先と真反対の端のこと。
[9] えいきと読み、体の浅い部分の正気を衛気といい、深い部分の正気を営気という。
[10] しんと読み、正気、真気などと同義で生命力のこと。
[11] 人体の生命活動の過程で、必要な物質と動力の基礎。
[12] せっぴと読み、鍼を刺入するときに、皮膚を鍼先が突き抜けることをいう。
[13] しんきと読み、生命維持に大事な気で、正気、神などと同義と考えられる。
[14] 鍼を刺すときの支え側の手で、右利きの者では左手をいう。
[15] 鍼を刺すときの差し込む側の手で、右利きの者では右手をいう。
[16] 皮膚に接触するだけで、治療効果を得られる鍼。
[17] 『黄帝内経』には九種類の鍼を定めていて、その中の一つが三稜鍼であり、形状は三角錐の鍼先で、皮膚を刺し切り、悪い血を抜くことに使った。
[18] 一般に言われるツボのことで、気の出入するところであります。
[19] 鍼先の形状の一つで、鋭いトンガリ帽子のような鍼先をいいます。
[20] これも鍼先の形状の一つで、すり下ろしよりも鈍い角度のものをいいます。
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